これまでに、アカデミー賞に主演・助演含めて6度候補になっているエイミー・アダムス。その彼女が、新作でまたしても最高の演技を見せている。『ナイトビッチ』のワールドプレミアが行われたトロント映画祭から聞こえてきた評判は、誇張でも偽りでもなく、まさに体当たりの演技だった。『ナイトビッチ』は、『ある女流作家の罪と罰』(18)、『幸せへのまわり道』(19)のマリエル・ヘラーが、レイチェル・ヨーダーによるベストセラー原作をもとに、女性のフラストレーションと目覚めを描いている。数々の名作、話題作を送りだしているサーチライト・ピクチャーズが今年のアワード・シーズンを見据えて投入する『ナイトビッチ』が、第37回東京国際映画祭の「ガラ・セレクション」部門にてジャパン・プレミアを迎えた。
【写真を見る】育児にフラストレーションを抱えた母親像は共感の嵐?「男性にとってはホラー、女性にとってはコメディ」という海外評も… / [c]2024 Searchlight Pictures. All Rights Reserved.
アダムスが演じるのは、結婚・妊娠を機にアーティスト活動を中断し家庭に入り、一人息子と公園に行ったり、絵本の読み聞かせ教室に通う日々を送る専業主婦の女性。出張がちな夫(『カモン カモン』のスクート・マクネイリー)は仕事が忙しく、4歳の息子はわんぱく盛り。自らが望んだ生活だとは言え、ワンオペの子育てに行き詰まりを感じていたころ、彼女の中に潜むなにかが目を覚ましていった。映画の中で、登場人物は「母親」「父親」「息子(ベイビー)」としか呼ばれない。これは原作どおりの設定だが、この匿名性はとても大きな意味を持つ。「子どもと一緒に公園に行くと、“○○のお母さん”としか呼ばれなくなりますよね。まるで、親になると自分の名前とアイデンティティを取り上げられてしまうような。その変異は、とても大きなものです。自分中心の日々から、他者のことだけを考えて生きる日々へ。そうしてだんだんと自分自身を失っていき、取り戻すことが難しくなる。二度と個人を取り戻せない女性もいます」と、ヘラー監督はインタビューで語っていた。ちなみに、女性の蔑称として知られる単語がタイトルにつけられているが、映画を観たあとに言葉の本来の意味を確認すると「なるほど」となることだろう。
エイミー・アダムスは、出産を機にアーティストとしてのキャリアを諦めた母親を演じる / [c]2024 Searchlight Pictures. All Rights Reserved.
監督・脚本を務めたマリエル・ヘラーは、『ある女流作家の罪と罰』でメリッサ・マッカーシーとリチャード・E・グラント、『幸せへのまわり道』でトム・ハンクスと組み、彼らにオスカーノミネートを授けている。オスカー候補になった過去の作品において、どんな難しいキャラクターも自分のものにして演じる憑依型女優だったエイミー・アダムスだが、今作では身体を駆使し、衝撃のメタモルフォーゼを遂げる女性を演じている。
2人の子どもをもつマリエル・ヘラー監督 / [c]2024 Searchlight Pictures. All Rights Reserved.
役者としても知られるマリエル・ヘラーは、最近の作品では「クイーンズ・ギャンビット」(Netflix)に出演。アニャ・テイラー・ジョイが演じたベスの義父の妻で、のちに彼女のマネージャーとなる継母役を演じている。「クイーンズ・ギャンビット」は、孤高のチェスプレイヤーが仲間を見つけ、彼女の前に立ちはだかる大きなものに対峙していく物語だった。ヘラー監督は、社会から取り残された人々の連帯を描く術に長けている。『ある女流作家の罪と罰』では作家とその友人、『幸せへのまわり道』ではテレビ番組司会者と彼を取材する記者の間に生まれるかすかな連帯を描いてみせた。『ナイトビッチ』に登場する人々の描写にも、ヘラー監督らしい慧眼が光る。今作では、その連帯は映画を観ている女性たちにも広がっていくことだろう。
文/平井伊都子