20年のキャリアに終止符を打った細貝萌。本田、長友、岡崎ら“86年世代”から得た刺激。10年前の偽らざる本音も吐露【独占インタビュー】

 2005年に前橋育英高校から浦和レッズ入りし、Jリーグ3クラブ、ドイツ4クラブ、トルコ1クラブ、タイ2クラブで合計20年間のプロキャリアを過ごした細貝萌(ザスパ群馬)。その彼が2024年シーズン限りで現役引退を決断し、11月10日のいわきFC戦でシーズン全日程を終えた。

「この2年間、自分自身が思っているようにいかなかった。ピッチに立つ時間が少なくて、現状を踏まえたなかで今、ここでピリオドを打つのがベストかなと考えました」

 確かに2023年はJ2で7試合、今季は4試合と出番が激減。群馬のJ3降格が決まったこのタイミングで退くことがベストという判断だったのだろう。

 細貝というと、やはりアルベルト・ザッケローニ監督率いる日本代表で戦った2010~14年が印象的である。10年9月のパラグアイ戦で初キャップを飾り、2011年アジアカップにも参戦。同大会の準決勝・韓国戦では1-1で迎えた延長前半、本田圭佑のPKのこぼれ球に詰めて、代表初ゴールをゲット。日本のアジア制覇の原動力になっている。

「あのシーンは圭佑にとっては良くないシーンだろうし、スムーズに決めたかったと思いますけど、僕にしてみれば、あのゴールがあったからこそ、サッカー選手としての価値が高まったのは確かですね。

 1つ言えるのは、僕は浦和時代も含めて、PKのこぼれ球は常に狙っていたということ。キッカーがどっちに蹴るか分からない状況で、とっさに走っても間に合わない。日々の積み重ねをああいう大きな場面で出せるのが嬉しかったですし、その重要性を感じたゴールでもありました」と、細貝は13年前の印象的な場面をしみじみと述懐する。

 当時のザックジャパンを振り返ると、本田に長友佑都、岡崎慎司、森脇良太と同じ86年生まれが数多くメンバーに名を連ねていた。代表は一時的な招集にとどまったが、今もなおJ1トップで活躍している家長昭博も同い年。86年生まれは、79年生まれに続く『ポスト黄金世代』という見方をされた時期もあったほど、個性豊かな面々が揃っていた。
 
「同世代のメンバーには大きな刺激を受けました。僕が与えられたとは思ってないですけどね(笑)。彼らが面白いのは、性格がそれぞれ違うのもあるけど、とにかくサッカーが好きで、サッカーを第一に考え、活躍していること。あれだけの結果を出すということは、その分、多くのことを犠牲にしている。そこには心からの敬意を払っています。

 特に圭佑は自分の色がものすごくありました。でも一緒に食事したりする時の圭佑と、代表のミックスゾーンで取材対応する時の彼は全然違った。外からの見られ方、ファッションやヘアスタイルを含めて、本田圭佑を演じているところがあった。自分のブランドを作るんだという意識を色濃く感じました。

 僕がそんなことをしても実力がないから『何やってるんだ』で終わるけど(苦笑)、圭佑はスター像を確立させた。それは誰もができることではないですね」と、細貝はまず本田へのリスペクトを口にした。

 その本田は「世界各国の1部リーグで点を取る」と目標を掲げ、現在も現役を続行中。長友に至っては、今もなお日本代表の一員として自身5度目のワールドカップ出場を虎視眈々と狙っている。その傍らで岡崎は昨季限りで一足先にユニホームを脱ぎ、指導者人生をスタートさせている。

「佑都は代表合宿でグラウンドに移動する前、ホテルのジムでしっかり走って、筋トレやケアする姿をよく見ました。『こんなに入念に準備をするのか。ホント凄いな』とシンプルに感じましたね。38歳になった今、代表ではベンチ外が続いているけど、そういう立場になってもワールドカップを目ざし続けている。それは心が強くないとできないこと。素晴らしいなと心底、思います。

 オカちゃんは先日も電話で話しましたけど、サッカーへの熱は引退した今も一番ですね。現役の時から今のバサラマインツの経営に乗り出したりしていますけど、『まずは選手として何ができるか』を最優先に考えて、ここまで来たと思います。真っすぐな人間だけに、周りからは地味に見られることも多いけど、最後のシーズンも膝の怪我を抱えながら懸命にリハビリをしていました。今は監督という新しい目標に向かって突き進んでいる。それも彼らしいなと感じます」

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 そういった素晴らしい同期に囲まれ、ザックジャパン時代は充実した時間を過ごしていた細貝。だが、ご存じの通り、2014年ブラジルW杯は落選の憂き目に遭った。当時は遠藤保仁と長谷部誠が鉄板ボランチを形成。ロンドン五輪世代の山口蛍が急成長し、もう1枠は攻撃のギアを上げられる青山敏弘が滑り込む形になったからだ。

 当時の細貝はドイツ・ブンデスリーガ1部でコンスタントに活躍。実績的には長谷部と肩を並べるほどだった。ゆえに、彼の落選は大きなサプライズという見方をされた。

「シンプルに自分の実力不足というところがあったし、ドイツで継続的に試合に出ていたこともあって、自分自身の代表における状況から目を背けてしまいがちでしたね。

 やっぱりヤットさんと長谷部さんという強烈なコンビがいたし、どっちかにアクシデントがないと試合に出られない。わざわざドイツから帰国してワールドカップ予選に参戦しても、数分しかピッチに立てずにまたドイツに戻るというのが続いて、『自分はクラブから給料をもらっている選手。ここで頑張るんだ』という気持ちになって、代表から逃げてしまっていたんです(苦笑)。

 代表が日本国民からどれだけ注目されている存在かは今になるとよく分かるし、あの時もそういう気持ちで取り組んでいたら、もっと良いパフォーマンスを出せたのかもしれない…。そんな後悔も少なからずあります」と、細貝は10年前の偽らざる本音を吐露する。

 彼が乗り越えられなかった鉄板コンビの存在感は、今の森保ジャパンの遠藤航と守田英正のコンビと同等か、それ以上と言ってもいい。極めて高いハードルだったのは事実だ。
 
「2人は僕とストロングの異なる選手。それに、ザックさんのサッカーはアウクスブルクやヘルタ・ベルリンのサッカーとは違うので、自分自身、気を遣いながらプレーしなければいけなかった難しさもありました。

 そうこうしているうちに蛍も伸びてきて、彼が輝いているのもよく理解できた。トシ君も北京五輪でコンビを組んだことがある選手ですし、やっぱり僕とは違うタイプ。最終的に彼らがチョイスされたということなんです。

 正直、ダメージはありましたし、落選後には発熱したほどショックも大きかった。周りにも申し訳ない気持ちでいっぱいだった。でも、それも僕の人生ですね」

 苦しかった過去も含めて、彼のサッカーキャリアは偉大だった。それだけは改めて強調しておきたい点である。

※第1回終了(全3回)

取材・文●元川悦子(フリーライター)

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