国際Aマッチ30試合出場1ゴールという日本代表歴を持ちながら、ワールドカップ出場を果たせなかった細貝萌(ザスパ群馬)。しかしながら、ドイツ、トルコ、タイの3か国で過ごした海外での実績は目覚ましいものがある。
「僕が欧州移籍した頃は、日本代表でバリバリに活躍している選手しか海外に行けない時代でした。90年代はカズさん(三浦知良)やヒデさん(中田英寿)、2000年代は小野伸二さんや小笠原満男さん、中村俊輔さんといった名のある選手たちだけが行くような環境だった。自分も2010年に代表入りしたことで、その流れに乗ることができた。それはすごく幸運でした。
自分の少し前に(本田)圭佑や(香川)真司、ウッチー(内田篤人)、同じタイミングでオカちゃん(岡崎慎司)も行きましたけど、そういう同世代の選手たちが活躍したから、今みたいに多くの日本人選手が若いうちから外に出られる状況になったと思います」と、細貝はこれまでの海外移籍の流れを客観視する。
彼自身にとって、とりわけインパクトが強かったのが、2011~17年にかけて戦ったドイツ・ブンデスリーガ時代。2010年の年末に名門レバークーゼンに完全移籍した細貝は、2011年のアジアカップ直後に2部のアウクスブルクへレンタル移籍。当時チームを率いていたのが、恩師となるヨス・ルフカイ監督だ。
指揮官は細貝のボール奪取能力や対人守備の強さを高く評価し、すぐさまボランチの主軸として起用し始める。いち早く適応した彼は、2010-11シーズン後半戦で1部昇格に貢献。翌シーズンはレギュラーとして奮闘し、一気に評価を上げたのである。
2012-13シーズンは保有元のレバークーゼンへ戻ったが、13-14シーズンはヘルタ・ベルリンへの完全移籍に踏み切る。その時、細貝を呼んでくれたのもルフカイ監督。その信頼は絶大だった。
加えて言うと、2016年夏にトルコから当時ブンデスリーガ2部のシュツットガルトに戻った時も、指揮官は恩師だった。「ルフカイあるところに、細貝あり」と言っても過言ではないくらい、2人は強固な絆で結ばれていた。
「僕の場合は行った先での監督との相性がすごく良かった。ルフカイさんはすごく大きな存在でした。彼は間違いなく自分を信じてくれたし、僕の一挙手一投足をよく見てくれた。不思議なもので、選手は信頼を感じるとプレーが格段に良くなるものなんです。
ヘルタ・ベルリン時代を振り返っても、ルフカイさんが2015年2月に解任され、ダルダイ・バール監督が来ました。僕自身は『心機一転、頑張ろう』と思って必死に取り組んだんだけど、挨拶した時から『これなんかちょっと違うな』という違和感を覚えた。そこから噛み合わなくなり、使われなくなっていきましたね。
やっぱり監督・選手同士の信頼関係は選手にとっては非常に大きな要素。それはルフカイさんと出会ったからこそ再認識することができましたね」と、細貝はしみじみと感謝を口にする。
香川や遠藤航にとってのユルゲン・クロップ監督、岡崎にとってのトーマス・トゥヘル監督もそうだが、やはり才能を買って重用してくれる指導者がいたから、日本人選手は地位を引き上げることができた。今の若手はそういう歴史に感謝すべきだろう。
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その恩人に細貝は引退の連絡をしていないという。「ルフカイさんはよく携帯番号を変えますからね」と細貝は冗談交じりに笑っていたが、プレーヤーを退くことを決めた今、どこかで再会のチャンスが巡ってくれば理想的だ。
そういった良い出会いも大きかったが、細貝がドイツで一定の成功を収められたのは、単に監督や環境に恵まれただけではない。彼自身もドイツ語を学び、異文化に適応しようという努力をしたからこそ、ブンデスリーガ1部で102試合、2部で17試合出場という偉大な記録を残すことができたのだ。
「言葉の問題はもちろんありました。浦和レッズにいた頃から僕は海外に行きたいという思いが強かったので、英語の家庭教師をつけて週に何回か勉強をしていました。その後、ドイツに渡ってからもレッスンは一生懸命やりました。
今はだいぶ落ちましたけど、ドイツ時代はヘルタ・ベルリンに後から来た(原口)元気やシュツットガルトに来た(浅野)拓磨の通訳みたいなことをやったこともありましたね(笑)。自分は試合に出ないのに、監督とかコーチに呼ばれて、試合前のミーティングに参加して、彼らに説明した記憶があります。
そういう努力も大事ですけど、海外にいると自分1人だけで解決できないことも多い。言葉も契約や生活面の交渉などは難しいんで、任せるところは専門家に任せました。
精神的な部分も変えて、ドイツにアジャストしていかないといけないということも感じていました。そこで僕はメンタルコーチもつけてトレーニングをしました。『メンタル強そうだね』ってよく言われたけど、実際にはそんなこともない(笑)。だから専門的な力が必要だったんです。それは個人トレーナーもそう。自分のためになることは自己投資を積極的にしていました。欧州で戦い抜くには、そういうことは当たり前なのかなと思います」と、細貝は貴重な話をしてくれた。
トルコとタイで戦えたことも、彼にとっては大きな財産になっているという。
「ブルサスポルはクラブ規模も大きくて、クラブハウスも練習場も素晴らしかったので、居心地は良かったです。あの時、ちょうどテロが続いていたので、情勢不安はありましたけど、すごく充実した1年だった。タイもそうですけど、5年後か10年後か分からないけど、それぞれの国で生活したこと、培ったことが自分の役に立つ時が来ると思っています」
貴重な海外キャリアをどうセカンドキャリアに活かすのか。細貝は「指導者の道に進むつもりはない。むしろマネジメントの方に興味があります」と話していたが、11月11日に2025年から群馬の社長代行兼GMに就任することが正式に発表された。
これは驚くべきニュースだが、彼ほどの国際経験値を持つ選手はそうそういない。それを最大限に活かし、故郷のクラブを発展へと導いてくれるのではないか。周囲からの期待も非常に大きいはずだ。
※第2回終了(全3回)
取材・文●元川悦子(フリーライター)
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