浦和では闘莉王に怒られ、柏では苦悩したが多くの学びも。現役最後は故郷のクラブで。細貝萌にとってのJリーグとは?【独占インタビュー3】

 日本代表や海外3か国での波乱万丈なキャリアが印象的な細貝萌(ザスパ群馬)。プロ20年のうち、12年はJリーグでプレーしている。浦和レッズ、柏レイソル、サズパ群馬の3クラブに対する思いは、やはり一言では語り尽くせないものがあるという。

「僕は(浦和に)2005年入団なんですけど、先輩たちがすごく厳しかったですね。オン・ザ・ピッチはもちろんのこと、オフ・ザ・ピッチもそうだった。浦和の時は、特に(田中マルクス)闘莉王さんが厳しかったかな。細かい要求は凄かったですし、3バックの一角に入った時なんかは、横にいて怒られた(笑)。常に高い基準を突きつけられました。

 サイドバックには山田暢久さんがいて、前には鈴木啓太さんや阿部勇樹さん、長谷部(誠)さんといった偉大な先輩が陣取っていました。アレックス(三都主アレサンドロ)や田中達也さん、永井雄一郎さんら錚々たるメンバーにも囲まれ、毎日が必死でした。さらに、外国人選手もワシントンやエメルソン、アルパイとかですからね。ワールドクラスの突出した個の能力の重要性も目の当たりにさせられました。

 そういう経験は欧州に行ってからすごく役立った。メンタリティ含めて世界基準が必要なんだと分かっていたんで、向こうに行ってからの適応の助けになったと感じています。

 今のサッカークラブは『上下関係なく仲が良い』という印象で、それも善し悪しがありますけど、この20年間で選手たちの雰囲気は変わってきていますね」と、細貝はしみじみと思いを馳せる。

 半年前に引退した長谷部も「自分のキャリアを振り返った時、1つ目のフェーズは浦和時代。プロ生活をスタートさせて、最初のクラブが浦和だったのは非常に大きいことだし、本当に幸運だった。ビッグクラブ、日本一のお客さんが集まり、キャラクターの濃い選手の中でプレーできて、タイトルも取れた」と語っていたが、細貝にとっての浦和での6年間も同じような位置づけだったのではないだろうか。

 日本代表クラスの面々に囲まれた細貝は最初の3年間、出場機会をほとんど得られなかった。2006年までのギド・ブッフバルト監督体制ではCB、2007~08年途中までのボルガー・オジェック監督体制ではCBやSB、ウイングバックでも起用されたが、基本的にはベンチにいることが多かったのだ。

 それでも、2008年北京五輪代表にはコンスタントに呼ばれ、アジア予選、本大会を戦った。当時の反町康治監督は「細貝には才能がある」と口癖のように言い続けていたが、「他クラブへ行けば間違いなく主力を張れる人材なのにもったいない」という意見も数多く聞かれた。が、本人はレンタルという道を選ばず、偉大な先輩たちからポジションを奪うべく、真っ向からぶつかっていった。

 長谷部のヴォルフスブルク移籍もあり、2008年以降は出場機会が増加。ゲルト・エンゲルス監督の下、本職のボランチで使われる機会が増え、2010年には尊敬する鈴木啓太からポジションを奪うことに成功。日本代表入りの道も開けたのである。

「鈴木啓太さんのことは人間的にもすごく尊敬していて、プライベートでもお世話になりました。『こういう人になりたい』とずっと思ってプレーしていました。その先輩とポジション争いをした経験を含めて、サッカー選手の基盤を確立することにつながった。やっぱり浦和時代は語り尽くせないほど重いものですね」と本人も改めて感謝を口にする。
 
 2つ目のクラブ、柏レイソルには2017~18年の2シーズン在籍した。海外から古巣・浦和復帰の話もないわけではなかったようだが、もともと小学校の卒業文集に「柏レイソルに入る」と書いたほど強い思い入れがあった。同じ群馬県出身のスター大野敏隆にも憧れを抱いており、彼が10番を背負って躍動していた姿も脳裏に焼き付いていたという。それが柏入りにつながったのだ。

「でもレイソルの時は2年間でJ1で22試合しか出られなかった。最初は環境変化への適応に苦しみました。欧州のピッチは冬場に完全に凍ってしまうので、ピッチの下にヒーターが入っていて、土がドロドロに溶けるようになっているんです。最初、そこに順応するまでに時間がかかったんですけど、それが3年、5年と長くいるうちに当たり前になっていた。

 そんな自分が逆に日本に戻ってくると『ピッチが全然違うな』と感じて、なかなかうまくプレーできなかった。怪我もありましたし、本当に難しい時間を過ごすことになりましたね」と細貝は苦渋の表情を浮かべる。

 このピッチの問題については、清武弘嗣らも口を揃えていたこと。「もともと日本にいたんだから、すぐにJリーグで活躍できるだろう」と見る側は楽観的に捉えているが、実際にプレーする側はそう簡単にスイッチを切り替えられない。欧州から戻ってきた元代表クラスの選手がトップフィットするまでに時間がかかる一因と言っていい。細貝の発言から学ぶべきことは多いのだ。

 それでも柏時代には伊東純也や中山雄太など後の日本代表を担う人材とも共闘。2018年はJ2降格の憂き目に遭ったが、そういった苦難も含めて、細貝にとっては学びの多い時間だった。

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 そして3つ目の群馬は自身の故郷のクラブ。2019年にタイへ赴いた際、膵のう胞性腫瘍という大きな病に直面。それを必死に乗り越えて現役を続行していただけに、「(家族や仲間のいる)群馬でキャリアを終えたい」という思いは強かった。そしてコロナ禍の2021年に加入を決めたという。

「群馬は僕が浦和入りした2005年にJ2初参戦したクラブ。僕の選手としての歴史と重なっているんです。だから、プロになった時に『最終的に群馬に戻って活躍したい。そこでキャリアを終えるんだ』という考えがありました。それを本当に実現できたのは嬉しいこと。

 やっぱり地元に戻ってくるのは簡単なことじゃないし、僕の前橋育英の先輩を見ても、山口素弘さん、松田直樹さん、青木剛さんと日本代表歴のある方々がいますけど、群馬に戻ってキャリアを終えたのは自分だけ。喜んでくれる地元の子どもたちとか家族、友だちも含めて、『細貝を間近で見れた』と思ってもらえたことは有難いことだと感じます。

 4年在籍して、最後の2年間はピッチ上で勝利に貢献できたとは言えないですし、自分自身もフル稼働できたとは言えない。チームもJ3に落ちてしまいましたけど、こうやって素晴らしいクラブハウス(ザスパーク)もできたし、群馬には全国トップクラスの高校生年代の選手もいる。クラブは生き物なので、良い時も悪い時もありますけど、長期的に成長していけると僕は感じています」
 
 細貝が神妙な面持ちで言うように、群馬というクラブはこの先、まだまだ成長できる可能性がある。彼が加入した時点では、練習着を自分で洗うというプロ入り後、初めての経験もしたというが、クラブ運営規模を含めて拡大していけるはずだ。

 前回も触れたが、細貝は2025年から群馬の社長代行兼GMとして新たなスタートを切ることになった。「群馬と関わりを持ち続けたい」という本人の強い思いから、そういった方向に進むことになったのだろう。

故郷のクラブ、サッカー界の発展に寄与できれば、まさに理想的。実際、群馬県出身で彼ほどのグローバルなキャリアを持つ人材はいないと言っても過言ではないのだから、率先して地域のサッカーをけん引してほしいもの。ここからの道のりが非常に楽しみである。

※このシリーズ了(全3回)

取材・文●元川悦子(フリーライター)

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