パラレルキャリアは「怖さや面白さ、楽しさが同居している、ちょっとカオスな毎日」。実践者2人が語る面白さ

障害のあるこどもや学校に行けないこどもの支援をしようと、千葉県鎌ヶ谷市でカフェ「ヨリドコロ mani mani」(マニマニ)の経営を始めた伊藤祥子さんと川崎彩さん。ともに保育士の資格を持ち、教員や公認心理師としての経験を生かして活躍しています。「全然違うタイプ」と語る2人のキャリアと、共に働くパートナーとしての絆に迫りました。

伊藤さん「レコード会社、専業主婦を経て特別支援学校へ」

――伊藤さんは、以前から教育や保育にかかわる仕事をしていたんですか?

伊藤 いえ、以前は全然違う仕事をしていました(笑)。大学で心理学を学んだ後、レコード会社に就職して、アーティストのプロモーションを担当したり、ブレイクさせるスケジュールを立てたりと、すごく楽しく働きました。20代は結婚も出産も眼中になく、ひたすら自分のために生きていましたね。

ただ、深夜にも動くハードな仕事だったので、30代が見えてきたころ「この仕事、ずっと続けられるかな?」と考えるようになりました。周りにロールモデルが見当たらずモヤモヤしていたとき、たまたま相手がいたので結婚しちゃいました(笑)。

結婚して千葉県に引っ越し、専業主婦になり、すぐにこどもを授かりました。独身のころは都心の生活を謳歌していたので、千葉県ののんびりした空気は新鮮でしたね(笑)。産後は人生で初めてこどもという存在に触れ、子育てがこんなに驚きにあふれているんだと知りました。同時に、育児をしながらレコード会社に復帰するのは不可能だなと、区切りをつけました。11年間専業主婦をしましたが、子育ては本当に楽しかったです。

伊藤祥子さん

こども2人が小学生になったころ、特別支援学校の介助員になりました。私は小学生のとき、自閉症のクラスメイトがいて、不思議な子だなあ、仲良くなりたいなと思っていました。当時は知識もなく、ちっとも振り向いてもらえない片思い状態(笑)でしたが、今なら心理学の知識を生かせると思ったのと、レコード会社時代はずいぶんファンキーな働き方をしていたので(笑)、今度は地に足がついた働き方をしたいなと思ったのも理由の1つです。

特別支援学校で以前から知り合いだった川崎さんに同僚として再会したときはびっくりしましたね(笑)。そうして特別支援学校で働くうちに、先生のやり方にもこどもたちの反応にもいろんな違いがあるんだなと気づいたんです。それなら、もっと早い段階でこども一人ひとりの特性にアプローチしたいなと思って、未就学児の早期療育に興味を持ちました。4年間働いた特別支援学校から、保育士資格を取って療育施設に転職しました。

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川崎さん「私が小学校教諭になって教壇に立つなんて、思っていなかった」

――川崎さんは、保育士と特別支援学校・小学校教諭の資格をお持ちです。

川崎 私は親戚に自閉症の子がいたり、近所に特別支援学級の先生がいたりした経験があって、昔から障害児の療育や教育に興味がありました。それで、大学では特別支援学校(当時:養護学校)と保育士、幼稚園教諭の免許を取り、卒業後は横浜市の療育センターで働きました。

その後は伊藤さんと同じように、結婚・出産を経て専業主婦をしていたんです。その間は、子育てを全力で楽しんでいました。毎日刺激的で面白かったので、働きたいと思ったことはありませんでした。

川崎彩さん

あるとき、ひょんなことから小学校の介助員をするようになり、さらに周りの先生から「せっかくだから、小学校教諭の免許も取ったら?」と勧めていただいて。こどもも小学生になって手が離れてきたし、頑張ってみようかなと思って免許を取りました。子育てと並行しての試験勉強や採用試験は本当に大変でしたね。自分が小学校で教壇に立つなんて思ってもいなかったので、本当に巡り合わせとタイミングです。

支援学校時代は同僚のみんなで一致団結してやり遂げる感じが、まるで部活みたいで楽しかったのをよく覚えています。当時38歳でしたが、若い先生たちとは戦友のような間柄になれました。

そして特別支援学校で、たまたま伊藤さんと一緒に働くことになったんです。専業主婦時代に知り合ってはいましたが、このとき同僚として再会して。まさか職場に知り合いがいるとはびっくりで、心強かったです。

小学校に異動してからも同じように、仲間と一緒に働く楽しさを噛み締めていました。後から気づいたことですが、私は別に「こどもに教えたい!」というものがあるわけじゃないんです。そのままの、ありのままがいい。ただ仲間やこどもたちと一緒に過ごす毎日が好きなんですよね。講師だった期間も合わせ、合計13年間、学校の現場で働きました。