なんらかの作品を創った人は、その「著作権」を有する。自分の考えや想いを作品として表現したのだから、強い思い入れもあろう。だが、「思い入れ」と「思い込み」はまるで違う。
「著作権侵害だ!」と筋違いないちゃもんをつけ、裁判沙汰にするような思い込みが過ぎるクリエーターも残念ながら多数存在する。そうした”エセ著作権”を振りかざし、トラブルに発展した事件の数々を取り上げた一冊が「エセ著作権者事件簿」(友利昴著)だ。
本連載では、ニュース等で話題になった事件も含め、「著作権」にまつわる、とんでもないクレームや言いがかりを紹介。逆説的に、著作権の正しい理解につなげてもらう。
第1回では、ベストセラー「完全自殺マニュアル」で発生した著作権トラブルを紹介する。敬意を表した行動が、相手の無知と無理解で、とんでもない”アンサー”となり、裁判沙汰にまで発展。当然といえる結果に帰結しているが、なんとも後味は悪い…。
著作権を振りかざす前に、「創造性とはなんなのか」を考えさせられる事件だ。(全8回)
※ この記事は友利昴の書籍『エセ著作権事件簿』(パブリブ)より一部抜粋・再構成しています。
鶴見済が著した1993年のベストセラー『完全自殺マニュアル』(太田出版)。服薬や飛び込みといった自殺の手法を克明に解説した書籍で、当時賛否両論を巻き起こした。この本の版元である太田出版が、著作権侵害であると主張し頒布差し止めを求めたのが、相田くひをの著書『完全自殺マニア』(社会評論社)の表紙カバーである。
両カバーを見比べてみると、なるほど確かに似ている(上記画像参照)。というか、書名を含め、『完全自殺マニア』は明らかに『完全自殺マニュアル』のパロディを意図してデザインされたことが分かる。
なぜ献本に対する”お返し”が絶版警告だったのか
『完全自殺マニア』は、日本で自殺した人物の記録を、実に2400件以上も集めたデータベース本。赤の他人の自殺事件をこんなにも収集・記録している人は他にいない。なるほど鶴見の本が「自殺マニュアル」ならば、相田は「自殺マニア」だ。そんな言葉遊びの発想から、カバーデザインを『完全自殺マニュアル』のパロディにすることになったのだという。
裁判沙汰になったきっかけは、以前、太田出版からも著書を出版していた著者の相田が、同社社長に『完全自殺マニア』を献本したことだった。本来、お礼のひとつでもあってしかるべきところ、同社は礼状どころか献本翌日に抗議文を返送し、その翌日には絶版を求める警告書を送り付けてきたというから尋常でないブチ切れ具合だ。
さらにその10日後、同社は東京地裁へ『完全自殺マニア』のカバーの頒布差止を求めて仮処分を申請している。この異様なスピード感はどうだろう。出版人として、他人の出版物の差し止めを求めることの重大さに自覚があったのか、差し止めに足る法的根拠の有無について十分に検討したのか、かなり疑問である。誰か社内で止めろよ。
パロディの本質へ無理解が生んだとんでもクレーム
しかし、怒りに任せて冷静さを欠いた訴えは、 いきおい裁判では通用しない。太田出版の主張を読むと、著作権を侵害されたという法的な問題意識というよりは、「安直にパロディされて気に食わない」という感情的な怒りが前面に出ていることが分かる。
社長の岡聡の陳述によれば、氏は「パロディには批評性が必要である」という考えの持ち主であるようだ。『完全自殺マニア』が『完全自殺マニュアル』に対する批評や対抗を意図したものでなく、単なる言葉遊び、ダジャレに過ぎない以上、 そんなものは「パロディなどにはなっていない」「批評性などかけらもなく編集者の思いつきというレベル」「パロディというならば、もっと根性を据えて切り込むべき」などとまくし立てている。
もっともこれは、著作権侵害であることの立証ではなく、太田出版の考える「パロディ論」の開陳でしかない。だがパロディ文化の地位が高く、明文的にパロディを著作権侵害の対象外としているフランスの法理は、パロディの要件のひとつに「ユーモア精神」を挙げる。批評性は、ユーモアに内在する精神要素のひとつとして位置付けられているに過ぎず、これに従えば、むしろ言葉遊びやダジャレこそがパロディの本質であるといえるのだ。
こうしたパロディ本を多数出版しているのになぜに無理解?(画像提供:合同会社パブリブ)
しかも、太田出版の過去の刊行物から「単なる言葉遊び、ダジャレに過ぎない」パロディ本が次々と発掘されたのだからカッコ悪い。『ノルウェイの大森』『例ダース 失われたギャーグ』『風に吹かれている場合じゃない』『ジュ・ゲーム・モア・ノン・プリュ』など、「……ああ、あれが元ネタでしょ」と分かる人は多いだろう。もちろん、装丁・カバーデザインもパロディになっている。
中でも、『完全自殺マニア』の相田が共著者になっている、国内未承認薬の効能や入手方法を記した『薬ミシュラン』は、ミシュラン社の『ミシュランガイド』からタイトルを転用したのみで、なんのダジャレにも語呂合わせにもなっていない。頼むから、ミシュランから訴えられてほしい。ここまで好き放題パロディ本を出版しておいて、いざ自分がやられたら直情径行に訴えるとは、説得力皆無のダブルスタンダードという他ない。
パロディ表現を著作権侵害とするために必要な要件
パロディ表現を著作権侵害とするには、「元ネタが分かる」といった程度の抽象的な類似性を主張するだけでは足りない。原典の著作者の個性が現れた具体的表現が、パロディ表現において再生されていることが必要なのだ。
専門的には、原典の「表現上の本質的な特徴」が、パロディ表現から感得されることが必要、という。言い換えれば、パロディ表現が、原典と抽象的な雰囲気やありふれた表現において類似しているに留まる場合は、著作権侵害にはならないのである。
では、両者のカバーに表れた具体的表現を比較すると、その本質的な特徴において、類似しているといえるだろうか。
太田出版は、文字や図形の配置関係などの類似性を訴え、挙げ句、どうにかしてたくさんの共通点を捻出しようとしたのか、「どちらの本の表紙も下地が白い」「どちらも裏表紙の左上部にバーコードがある」などとムチャクチャな主張を繰り広げた(ちなみに、書籍のバーコードの位置は、日本図書コード管理センターの企画により規定されている)。
裁判所が訴えを一蹴した理由
そんなもん、共通点としてカウントするかフツー!? このような要素を、いち出版社が独占できるはずがない。裁判所からは、いずれの共通点についても「ありふれたもの」「ごく一般的なもの」などとして一蹴されている。
こうして、裁判所は太田出版の訴える共通点については創作性を認めなかった。そのうえで、特徴的表現であるところのイラストなどの相違点を踏まえて全体的に見れば、両者の印象は「相当に異なるというべき」として、著作権侵害を否定したのである。
日本では、パロディ表現の法的妥当性を争った裁判例はまだまだ少ない。本件は示唆に富む貴重な事例として、記憶したいところだ。