◆これまでのあらすじ
大手メーカー人事部の未来(26)は、交際4年半の彼氏・悠斗との結婚を見据え、10のウィッシュリストを作成した。しかし、ボストン出張中に出会った学生の父親・笹崎達也(43)に惹かれ…。
▶前回:26歳、四谷で初の高級鮨デート。準備バッチリで入店したら大将に“あるコト”を言われ…
Vol.8 去ってゆく男
「未来ちゃん、もうこんな時間。遅かったね」
深夜1時過ぎ、未来が三鷹の実家に帰ると、姉の美玲がリビングのソファに座っていた。
「うん、すごく有名なお店でお鮨を食べた後、バーで誕生祝いしてもらったんだ」
美玲に今夜の出来事を話していると、未来の胸に高揚感が再び戻ってくる。
「それって、前に話していた学生の父親?未来ちゃん、そんな人とデートするの、危ないと思う」
美玲が眉間に皺を寄せる。
「笹崎さんはそんな人じゃないって!」
― 今晩だって、1杯飲んだだけだし…私が勝手に好きになっちゃっただけ。
未来は、さすがに自分の気持ちに気づいていた。
「ふーん」
美玲がちらりとルイ・ヴィトンのショッパーを見たので、未来は中身を見せながら言った。
「これ見て!Spell on Youっていう名前の香水。すごくいい香りだよ」
「未来ちゃん」
美玲がため息をついた。
「そんなベタな名前の香水をプレゼントするおじさん、アピールが過ぎるよ。それと、未来ちゃん傷つくかもしれないけど」
美玲が、クリーム色に赤とゴールドのドットが施されたショッパーを軽く撫でる。
「このショッパーはね、去年のルイ・ヴィトンのクリスマス限定ラッピング。去年から買ってあった香水をプレゼントされるなんて、完全に舐められてるよ」
美玲の言葉に、未来は思わずムキになった。
「それは…何か事情があったんだよ。お姉ちゃん、もしかして私のことが羨ましいんでしょ」
美玲が目を大きく開く。
「私は、悠斗と笹崎さん、2人に誕生日をお祝いされた。けど、お姉ちゃんは旦那さんに放って置かれて、いつも実家でゴロゴロしてるんだもんね」
自分の口から出てきたあまりにも意地悪な言葉の数々に、未来は驚いてしまう。
「…お姉ちゃんごめん、言い過ぎた」
「謝らなくていいよ」
美玲は、パッと立ち上がるとリビングから出て行ってしまう。
どんな表情をしているのか、未来は美玲の顔を見ることができなかった。
◆
― この前は、さすがに言い過ぎちゃったよね。
数日後、オフィスで仕事をしながら、未来は罪悪感を感じていた。笹崎を巡って口論になった後、美玲の態度がそっけない。
― でも、笹崎さんへの悪口は許せないんだもん。笹崎さん、昨日だって急に時間作ってくれて、私の取り止めのない話を聞いてくれたし。仕事のアドバイスもたくさんくれたし。
昨日、笹崎は『バー オーク』に連れていってくれた。
― すごく雰囲気が良くて素敵だったな…。
朝から山のように来ているメールに返信しながら、未来は美玲とのいざこざを頭の中から追い払う。
ブブッ。
そのときポケットの中で、プライベートのスマホが震える。
― もしかして、笹崎さん?この前、美味しいイタリアン連れていってくれるって言ってたな。もうお店予約できたのかな?
慌ててLINEを開くと、悠斗からの「いつになったら会えるのか」というメッセージだった。
― なんだ、悠斗か。
少しがっかりしてしまう自分に、未来は戸惑ってしまう。
― 笹崎さんからの返信を期待していたけれど…。私の1番は悠斗。結婚するのも悠斗。それは絶対に忘れちゃだめ。
どう返信しようか迷っていると、ラップトップには仕事のチャットが次々と表示される。
― 今は仕事に集中しよう。
未来はスマホをしまうと、メッセージを注意深く読み始める。
― もっと仕事ができるようになって、笹崎さんと対等にビジネスの話がしたい。
最近は何をしていても、思考が笹崎に行き着いてしまう。「未来ちゃんすごいね!」と驚いて、あの少年のような笑顔を見せて欲しい。
― はあ、笹崎さんから早く返信来ないかな。
気になる人からの連絡を待つ時間が、こんなにも恋心を加速させるものだということを、未来は初めて知った。
― これは、期間限定の秘密の恋。そもそも笹崎さんの私に対する感情なんて、年の離れた妹のようなものだろうし。
笹崎の息子・小林拓人が入社してしまえば、こんな関係は断ち切らなくてはならない。
― 小林くんが入社したら、悠斗とちゃんと向き合って、笹崎さんのことは思い出にするんだから。これ以上、笹崎さんを好きになってはだめ。
「…えっ」
頭の片隅で笹崎のことを考えながら、チャットのメッセージに次々目を通していた未来は、思わず小さく叫んだ。
『ボスキャリで内々定を出した学生3名、辞退の連絡がありました』
― 小林拓人くんも辞退組に入っている。どうして…。
愕然としながらも、チャットの中身を読み進む。
小林拓人は、待遇の良い外資系メーカーの東京支社からオファーが出たとのこと。
他の2名は、入社の意思があったが、入社前準備として会社から与えられた課題に取り組むうちに、不安を感じるようになったのだという。
『毎年内定者向けにやっている、創業者の伝記を読んだ感想文の提出や、7つの習慣セミナーが、肌に合わないと感じたようです』
「そんな…」
今までの努力が水の泡になった気がして、未来が言葉を失っていると、先輩が声をかけてくれる。
「長田さん、気にすることないよ。毎年海外組にはこういう学生がいるから」
「でも…」
未来は納得がいかなかった。
「働いてみたら、うちの会社の良いところだってたくさん見つかるはずなのに、本当に今のままで良いんでしょうか?」
未来は先輩に思いのたけを打ち明ける。
「私も正直言って、入社前に伝記を読まされたり、セミナーを受けさせられたりしたのにはちょっとひきました。でも『社会人になるって、こんなものかな』ってどこかで割り切っていたんです」
もっと正直に言うと、伝記もセミナーも、入社してから役にたった記憶がないが、それは胸のうちにしまっておく。
「そうそう、長田さんみたいな気持ちのあり方が大切なんだよ。海外組は、この課題をやると、毎年大量に内定辞退者が出ちゃうんだけどね」
仕方ない、と言わんばかりの先輩の言葉に、未来は首を横に振った。
「たくさんの時間とお金を使って、ボスキャリで学生さんと向き合ったのが無駄になりませんか?」
「…まあ、そうとも言えるけど、こればかりはどうしようもないよね。入社前研修は、我々採用チームの管轄外だし」
― うーん、この問題、すごく根深い気がする。
先輩が自分の仕事に戻ってしまった後、未来は悶々と考えた。
毎年内定辞退者を出す入社前研修は、改善の余地があるのではないか。
― もっと色々な経験を積んで、いつかこの問題を解決したい。
未来はウィッシュリストが書かれたノートを開く。軽い気持ちで書いた『海外から優秀な人材を採用する』という願いが、今では途方もなく難しく感じられる。
― もし自分がプロジェクトリーダーになれる日が来たら…。
『プロジェクトリーダーになる』というもう1つのウィッシュに目を落とし、未来は決心した。
― この問題を解決できるようなプロジェクトで、リーダーをやりたいな。
ふと思い出して、未来はノートのページをめくった。
興味本意で書いた『秘密の恋をする』というウィッシュリストが、目に飛び込んでくる。
― ふざけてこんなこと書いたんだっけ…。
図らずも今まさに秘密の恋をしている自分に、小さく苦笑いした。
◆
土曜日の夜。
未来は、久しぶりに悠斗と会う約束をしていた。
― 悠斗と会うのは1ヶ月ぶりか。そして、またいつもの店。
未来は今日、笹崎から『ヴェルテュ』に誘われたのを断ってきた。
目の前に置かれた、見慣れたスパークリングワインのグラスを見ると、残念な気持ちが湧き上がってしまう。
― いつになったら悠斗はスマートな店選びができるんだろう。いや…笹崎さんと悠斗を比べてはだめ。
未来はため息を飲み込んで気持ちを切り替えようとするが、店に入ってきた悠斗を見て、はあーっと大きく息を吐いた。
― またいつものパーカーにジーンズだ。たまにはイメージを変えて、びっくりさせて欲しいのに。
対照的に未来は、買ったばかりのBORDERS at BALCONYのワンピースに、笹崎からプレゼントされたヴァレンティノのパンプスを履いている。
「未来、お待たせ」
「うん」
「飲み物、頼んだ?」
「いつものスパークリングワイン、頼んだ」
「そっか、俺はとりあえず水で」
― まさか、久しぶりに会うのに、二日酔い?
「そういうの、流石にお店に失礼だよ。せめてミネラルウォーターぐらい頼んだら?」
未来が、ため息をつきながら、運ばれてきたスパークリングワインに口をつけると、悠斗が口を開いた。
「俺、最近未来のそういう態度、辛い」
「えっ、何が?」
予想もしなかった悠斗の言葉に、未来は驚いて聞き返した。
「未来、最近俺のこと蔑ろにしているでしょ。社会人としても、男としても、半人前みたいに見下してるの、伝わってるよ」
「そんなこと…」
ないよ、と言いかけて、未来は口をつぐんでしまう。
― 今だって、悠斗のことを残念だなって思ってた。
「俺、社会人になって今が一番辛い時期なのに。未来の『私、成長してます』みたいな、前向きオーラも辛い。海外出張したり、高級鮨食べたりするのがそんなに偉いの?」
悠斗がテーブルに置かれたカラフェから水をグラスに注ぐ。
「今の未来とは結婚してもうまくやっていける気がしない」
悠斗の言葉に、未来は愕然とした。
「じゃあ、どうしたら良いの?」
未来の声が震える。
「俺は、少し距離を置きたい、かな。その間に資格をとるし、未来も頭を冷やせるでしょ。どうかな?」
― 悠斗、言っていることがめちゃくちゃだよ。
未来は、心がスッと冷えるのを感じた。
「じゃあ、もう別れようよ」
未来の言葉に、悠斗は「…そ、その方が良いかな?」と言いつつ、ほっとした顔をする。
― 自分から別れ話もできない人だったなんて。
「うん。もう私たち、足並みを揃えられないと思う。悠斗は悠斗の幸せを見つけて。…それじゃ、元気でね」
未来は、スパークリングワインを飲み干し、席を立つ。
会計を済ませて店を出ると、当てもなく道を歩き出した。
それから思い立って、かつて悠斗とよく待ち合わせた早稲田大学理工学部の入り口を訪れる。
― あの頃は、楽しかったなあ。
4年間も一緒にいた恋人との別れが、こんなにもあっけないなんて。寂しさを感じながら、未来は悠斗との思い出の場所を歩いて回る。
よくテニスの自主練をした大学近くの区営テニスコート。外から眺めると、悠斗との思い出が記憶の隅から引っ張り出された。
― どんな試合でも最後まで諦めない悠斗の姿を見て、好きになったんだっけ…。
さらにタクシーでバスタ新宿に移動し、夜行バスを待つカップルの姿を眺めた。
― よくここからバスに乗って旅行したな。
流石に胸が締め付けられる。どの思い出にも、懐かしさを感じる。しかし未来の胸に「戻りたい」という思いは湧いてこない。
― お互いのために、別れてよかったんだ。
次々と出発するバスを見送りながら、未来が自分を納得させていると、スマホがLINEの着信を告げた。
『笹崎達也:やっと打ち合わせが終わったよ。今晩って…』
未来がその先のメッセージを見ようと画面をタップしようとした瞬間、『メッセージの送信を取り消しました』の通知が現れた。
しばらく待っても、笹崎からの次のメッセージは送られて来ない。
― 笹崎さん、どうしたんだろう?
未来は通話ボタンを押し、笹崎に電話をかけた。
【未来のWISH LIST〈2年後の結婚までにしたい10のこと〉】
☑ビールのおいしさを知る
☑一人でカウンターのお鮨を食べる
☑ビジネスクラスの飛行機に乗る(欧米路線)
□一人暮らしをする
☑英会話教室に通う
☑ハワイのハレクラニに泊まる
□100万円単位の衝動買いをする
□海外から優秀な人材を採用する
□プロジェクトリーダーになる
□昇進する
▶前回:26歳、四谷で初の高級鮨デート。準備バッチリで入店したら大将に“あるコト”を言われ…
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笹崎の元へと向かう未来。2人に幸せな未来はあるのか?