2015年に東京・恵比寿での営業を終え、2018年に京都で再開した「歩粉」。菓子職人としても活躍する店主・磯谷さんがつくる、素材が活きた滋味深いデザートは長きにわたり多くの人に愛されてきました。そんな彼女がずっと大切にする、カフェという“その場”でしか得られないたくさんの出会い。礒谷さんにとってカフェとは ——。その答えに、歩粉がカフェである理由がありました。
素材味のお菓子と、自分だけの空間。歩粉でしか出会えないものがある
“歩(く)粉”と書いて、「歩粉(ほこ)」 。心地よい響きを持つ、このわずか2音の店名には、ここで感じられるすべてのものがギュッと、つまっているように感じます。
—— 粉が歩いておいしいお菓子に変わり、食べた人が前を向いて歩み出して行ける場所でありたい。
オーナーの磯谷仁美(いそたに ひとみ)さんは、そんな想いを込めて、自身のカフェにこの名を付けました。
「デザートを召し上がっていただくカフェ」として、2015年までの9年間、東京・恵比寿に店を構えていた歩粉が、京都・北大路でふたたび歩みを始めたのは2018年のことです。
包み込まれるような陽の光がたっぷりと降り注ぐ店内は以前よりも少し広くなり、よりゆったりと過ごせる空間に。それでも、ぽつりとぽつりと並べられた14個の小さなイスを見れば、当時を知る方は懐かしさを覚えることでしょう。
そのうちの惹かれたひとつに腰掛けると、スッと、テーブルマットが用意され、カトラリーやカップが並べられるにつれて「自分だけの空間」がつくられていく特別感は、昔も今も変わらない、歩粉がくれる幸せのひとつ。
お菓子を楽しみに待つうちにフツフツと高まる高揚感も、店内に漂う甘い香りも、この場に来ることだけで味わえる、歩粉の“おいしさ”です。
小麦や季節の野菜、果物など、素材の味が力強く表現された唯一無二の歩粉のデザートは、長きにわたりたくさんのカフェ好き・お菓子好きに愛されてきました。
物件の都合で恵比寿の店の看板は下ろしたものの、再開を待ちわびた人がどれほどいたことでしょうか。また、レシピの書籍・連載や、コロナ禍で始めたオンライン販売をきっかけに、新たにそのおいしさに触れた人も多く、今ではお菓子ブランドとしても広く知られる存在に。
テーブルに使われている板やイスは、恵比寿の店でも使用していたもの
そんな歩粉も、2023年の年明けからはひとまず通販に区切りをつけ、これまでどおり店内営業に専念するスタイルに復帰。礒谷さんはふたたび、カフェとしての歩粉で、日々お客さまを迎えています。
「自分のカフェを開きたい」が、歩粉のはじまり
かねてから大のカフェ好き・お菓子好きを公言している礒谷さんにとって、カフェに行ってお菓子を食べることは、10代の頃から今も変わらない大事な日常だったといいます。
「“一日、一おやつ”は、絶対に譲れない日課みたいなもの。お気に入りのお店でのんびりするのも好きだし、やることがたくさんある休日でも用事ついでに周辺で寄れる喫茶店を探したり、身動きが取れない日のために気になるお菓子を買っておいたり。『行きたい、食べたい!』と思ったら、ちょっと無理してでも時間をつくって行動せずにいられないんですよね。なにせ、つくるより食べる方が好きなくらい(笑)」
声を弾ませながらそう話す言葉のとおり、彼女がこの世界に飛び込んだ一番の理由は、カフェで過ごす時間と、そこで出会う焼きっぱなしのケーキやプリンのような素朴なお菓子が好きだったから。
2005年に歩粉を立ち上げる前には、「カンテグランデ」「ナチュラルハーモニー」など、さまざまな現場でお菓子づくりを経験してきたという礒谷さん。自らいろいろな店に足を運んでは刺激を受け、「自分だったら食べたいおいしさ」をかたちにしてきました。
実は専門的に製菓を学んだことはなく、お菓子づくりはすべて現場で習得。「基礎知識がないから、どんなものができるかはいつも行き当たりばったり(笑)」(礒谷さん)
「お菓子をつくりたいというより、『カフェを開きたい』が歩粉の始まり。恵比寿の店の閉店、コロナ禍もあって、レシピ本や通販を通じてご自宅でお菓子を楽しんでいただいていることももちろん嬉しいけれど、やっぱり直接お目にかかることでその表情や声から伝わるものがあります。歩粉の出発点はカフェであり、カフェであることが歩粉だから、ぜひお店で過ごす楽しさも体験してほしい」
その場でしか得られない感動が山ほどあるから、カフェが好き
若き日から礒谷さんのハートを鷲掴みにして離さない、カフェ。彼女自身にとっては、そこで過ごす時間はどんな存在なのでしょう。
「ご褒美であり、気分転換であり、エネルギーであり、毎日の生活の中での何よりの楽しみ」
返ってきたのは、そんな答えでした。「自宅でお菓子を食べる時間も大好きだけど」と、ちゃっかり前置きを忘れないあたりに、さすがはお菓子好きとしての一面をのぞかせつつ、それでもカフェで過ごす時間はちょっとだけ特別だといいます。
ほんのわずかな時間でも、仕事や家事のことを忘れて、手づくりのおやつと、自分のために誰かが淹れてくれた紅茶やコーヒーをいただく……。そこには「自分のための時間」があって、自宅では得られない、たくさんの気づきや安らぎ、元気に出会えるのだそう。
たとえば、何度も訪れたことのある店でも、季節の移ろいやその日の気分、年齢の変化とともに感じることやおいしさが変わったり、スタッフさんの対応に感動することもあれば、常連さんの和やかなやり取りにピンッと張っていた気持ちが緩んだり。
店の中に何気なく置かれた小物や使われている器、流れるBGMなど、店主の人柄や好みが随所にあらわれた様子を見ているだけで、楽しくて仕方ないと話してくれました。
「お店って店主さんの人生そのものが現れますよね。SNSや雑誌で得られる情報もたくさんあるけれど、やっぱりその場でしか感じ取れない感動が山ほどある。だから毎回すごく新鮮だし、そのすべてが大事な思い出です」
まるでその日、その場にいたときのように次々とカフェでのエピソードを話す礒谷さん。その様子からも、ひとつひとつの時間を全身で楽しんできたこと、そしてずっと変わらないカフェへの愛情が、めいっぱいに伝わってきます。
「デザートのカフェ」は、自分ができる精一杯のかたち
もちろん、歩粉にあらわれているのも礒谷仁美さんそのもの。自身も「だだ漏れ(笑)」と話すとおり、お菓子のおいしさはもちろん、食材、コーヒー、紅茶、器、カトラリー、ファニチャー、ショップロゴ……、ここには彼女が好きなものや培ってきたものが、カフェとして表現されています。
恵比寿での開店当時は特に珍しかった、デザートの盛り合わせに絞ったメニュー構成も実は、「カフェ飯なんてつくれない!」と悩んだ礒谷さんが行き着いた、自分にできるカフェのスタイルなのだとか。「自分にできることを自分が納得できるおいしさで、と考えたらデザートしかなかった」と、当時を振り返ります。
国産紅茶の生産を復活させた名人・村松二六さんがつくる「丸子紅茶」はポットサービス。「mushimegane books.」のカップで。カトラリーは礒谷さん自身がアメリカで購入してきたもの
イメージしたのは、イギリスのアフタヌーンティーセットです。一般的にはタワーで提供されるアフタヌーンティーを2皿に分け、コースのように順にサーブすることで生まれたのが、「デザートフルセット」。
1皿目には、定番の全粒粉のスコーン、小豆の炊いたのと豆乳くずもち、エッグクラッカーサンドが。2皿目には、3種類の月替りのお菓子が並びます。
「デザートフルセット」。4月のケーキ「いちごと豆腐のティラミス」は恵比寿時代からファンが多い一品。そのほか「桜のシフォンケーキ」「ミルクプリン フレッシュいちごソース添え」と
メニュー替えは苦労の連続で、アイデアに尽きて暗中模索する日々も少なくないといいますが、そのたびに、「また来年も食べたい」というお客さまの声や、一番身近な存在で“小さなお客さま”ともいえるスタッフの率直な意見に支えられながら、歩粉らしいお菓子をつくり続けてきました。
今も昔も願いはただひとつ。「楽しいカフェ時間を過ごしてほしい」
京都でふたたび看板を掲げてから今年で5年目。特にここ数年は、パフェやサバラン、アジアンスイーツなど、恵比寿のころとはまた違ったラインナップが登場することも増え、歩粉のデザートはより一層、人々を魅了して止みません。
「ジンジャーケーキ」は多くの菓子職人にも愛される、歩粉のシグネチャーのひとつ。専門知識がない礒谷さんだからこそ生み出せたお菓子
メディアなどでは焼き菓子カフェとして取り上げられることが多い歩粉ですが、オープン当初から一貫して「デザートを召し上がっていただくカフェ」を謳っています。それは、おいしいと思えるものならどんなお菓子でもいいと思っているから。その中で、お客さまに喜んでもらえる歩粉らしいお菓子を届け続けたいと、礒谷さんは話してくれました。
「私がカフェに行く理由と同じように、ご褒美だったりリラックスだったり、歩粉で過ごすことがお客さまにとって“楽しい自分の時間”になっていれば、それが何よりの幸せです。おいしいお菓子もひとりひとりのための空間づくりも、そのためのもの。
直接お店に足を運ぶって、実はすごくエネルギーが必要なこと。そんなお客さまの想いにわたしもたくさんエネルギーをもらっているから、おいしいお菓子とできる限りのおもてなしでお返ししたい。いつでも、心よりお待ちしています」
見知らぬ誰かとテーブルの上ではつながりながらも、マットで仕切られることで生まれる「自分だけの空間」が、歩粉にはあります。
しかし不思議なことに、ひとりひとりが自分の時間を過ごすことでそれが共鳴し合い、店内いっぱいが「カフェを楽しむ」というやわらかな一体感で包まれることもまた、“この場で”しか出会えない、とっておきの歩粉の味。
おいしいお菓子とともに歩粉で過ごすひとときはきっと、また前を向いて歩いていけるよう背中を押してくれるでしょう。どうか、よいカフェ時間になりますように。
◆歩粉
住所:京都府京都市北区紫竹西南町18番地
TEL:075-495-7305
営業時間:10:00〜17:00
定休日:月〜水曜日
HP:https://www.hocoweb.com
SNS:https://www.instagram.com/hoco_hitomi
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取材・文・写真 RIN