◆これまでのあらすじ
大手メーカー人事部の未来(26)は、元カレ・悠斗との結婚を見据えて作成した「10のウィッシュリスト」の達成に向けて、破局後も動き続けている。17歳年上の経営者・笹崎達也と一夜を共にした未来は、彼と頻繁に会うために一人暮らしを決意し…。
▶前回:「今から会える?」深夜にベンツで20代OLを迎えに行き…。43歳・港区経営者のリアル
Vol.10 港区女子として生きていく
4月初めの土曜日。
未来は、空っぽになった実家の部屋を見て、ため息をついた。
― ついに、一人暮らしを始めるんだ。
これから、六本木駅徒歩15分の1Kに引っ越しをする。
「未来ちゃん、本当に港区に引っ越すんだね」
今日も実家に来ていた姉の美玲が、心配そうに未来に声をかけた。
「ねえ未来。最後に言わせて」
美玲は、自分のスマホ画面でInstagramを開き、未来に見せる。
「このサロンモデルの飛鳥っていう子、笹崎さんと付き合ってるって、最近いろんな場所で自慢して回っているらしいよ」
背景が歪みそうなぐらい加工された整形女子の顔が映っている。
― …ん?ここに映り込んでる腕時計、たぶん笹崎さんのだ。世界に100本しかないって自慢してたし…。
慌てて自分のスマホを取り出し、Instagramを開く。疑わしくてもう何度も見ている「asumaru」のアカウントと照らし合わせる。
― asumaru…。じゃあこれ、その飛鳥って子の裏アカ?
Instagramのアイコンに設定されている古ぼけた船の写真には、よく見ると「飛鳥丸」と書いてある。
― こんなに匂わせるなんて、この子も必死なのね。
未来は、姉に向かってキッパリと言った。
「笹崎さんは優しいから、勘違いしちゃう子もいるでしょ。私と付き合い始めて、そういう女性関係はちゃんと清算済みだし」
最後の一言は願望だが、きっとそうだろうと未来は自分に言い聞かせた。
― 一番は私なのだから、堂々と構えていよう。
「お姉ちゃん、忠告ありがとう。でも大丈夫。私、今すごく幸せだから」
美玲が何か言いたそうにしているのに気づいたが、未来は、背中を向けてタクシーに乗り込んだ。
「未来、一人暮らしおめでとう!これ、引っ越し祝いのマグカップ」
「ええっ、嬉しい!ベッドまでプレゼントしてもらったのに、食器も?さっそくお茶入れるね。座って!」
日曜日の昼すぎ。
未来は、新居を訪ねてきた笹崎に抱きついた。
本当は、土日を使ってゆっくり荷解きをする予定だったが、笹崎が突然来たいというので、昨日は徹夜で部屋を片付けたのだ。
笹崎がベッドに座ると、未来は、今もらったばかりのエルメスの箱を開ける。
赤い模様の入ったカップだ。紅茶を入れてそのカップに注ぐと、築40年の8畳間が一気に華やいだ雰囲気になった。
― しばらく住んで、お給料が上がったらもう少し広い部屋に引っ越そう。キャリアを積んだら独立して、笹崎さんの仕事を手伝うのもいいな。
笹崎からプレゼントされたダブルベッドを置いたら、もうそれだけでいっぱいになってしまった8畳間。
それでもここには未来の夢が詰まっている。
「未来ちゃん、これからはいつでも会えるね」
未来もベッドに腰掛ける。笹崎が、指先で未来の髪を撫でた。
これから甘い時間が始まるかと思いきや、笹崎のスマホが着信を告げる。
― asumaru…飛鳥さんなの?
ふと不安が胸をよぎるが、未来は物分かりの良い女風の笑顔を作る。
「仕事の呼び出し?行ってあげて」
― 笹崎さんが仕事を優先しても、私は騒いだりしない。ましてや飛鳥さんと違って、匂わせなんてしない。
「私も、英語と昇進試験の勉強をしないとだし」
笹崎が部屋を後にするのを見届けると、未来は脱力してベッドに倒れ込んだ。
― だめだ。今は、それよりも、寝たい…。
◆
翌日の月曜。未来は、もらったマグカップでコーヒーを入れてラップトップを開いた。
今日は久しぶりの在宅勤務だ。
― 在宅勤務が、こんなに楽しみになるなんて。
1年前の自分からは想像もできなかった変化だ。
廊下にとってつけたような暗いキッチンも、こんな小さい浴槽があるのかと驚いたユニットバスも、すべてが愛おしい未来の城なのだ。
テンション高くメールをチェックしていた未来は、思わず声を漏らした。
「あ…」
先日締切を迎えた社内プロジェクトコンペの結果が発表されている。
― 私のプロジェクトは…落選か。
上司にたくさんレビューしてもらって出したプロジェクト案。未来は、自分が選ばれなかったことよりも、上司の助けを活かしきれなかった自分にもどかしさを感じる。
さっそく上司に電話をかけた。
「あの、プロジェクトコンペの結果ですが、落選でした。たくさん助けていただいたのに、本当に申し訳ありません」
「今メール見ました。着眼点は良かったから、アイデアは温めておいてね」
「ありがとうございます」
電話を切ってコーヒーを飲みながら、ふと自分の気持ちに気づく。
― 私、今、悔しい…。仕事でこんな気持ちになる日が来るなんて。
未来はやたらと濃く淹れてしまったコーヒーをゴクリと飲み干し、仕事に取り掛かった。
次の日、出社した未来は、改めて上司にプロジェクトコンペのお礼を言いに行った。
「またいつでも力になるからね。そうだ、考えてみたんだけど、長田さんのアイデア、人事部内のプロジェクトとして進めてみない?」
思ってもみない申し出に、未来は姿勢を正す。
「本当ですか?内定辞退者を減らすために考えたアイデアなので、すぐにでも形にしたいです」
「人事部もリソースに余裕があるわけではないから小さなプロジェクトになると思うけれど、長田さん、リーダーやってみる?」
「はい!ぜひお願いします!」
嬉しさのあまり頬が紅潮する。
「良かった…実は、方針管理で何かひとつ、部内プロジェクトの成果報告出さないといけなかったんだよ。助かる!」
― 背景なんてなんだっていい。私がプロジェクトリーダーになるんだ。
席に戻ると、未来は久しぶりにウィッシュリストを書いたノートを取り出した。
『一人暮らしをする』と『プロジェクトリーダーになる』にチェックをつける。
― そういえば、このリストは悠斗と結婚するまでにしたいことをまとめたんだよな。
悠斗と別れた今、改めてリストを眺めると、昔の自分の世間知らず具合に笑えてくる。
― 仕方ないよね。あの時の私は子どもだったんだから。悠斗との結婚はなくなったけど、このリストは大切にしよう。これのおかげで今の私がいるんだから。
社内チャットの通知が来て、さっそく未来のプロジェクトにアサインされたメンバーを知らされる。
メンバーは、育児休業から復帰したばかりの時短勤務の先輩と、後輩のエミリだ。
― たった3人だけど、これが私のチーム。頑張ろう。
よろしくお願いします、と一言メッセージを送ると、未来はプロジェクト進行表の作成に取りかかった。
18時。
珍しく予定がない未来は、自分へのお祝いとしてニコライ バーグマンでフラワーボックスを買い、帰宅した。
小さなローテーブルに飾り、思い立ってエルメスのマグカップに紅茶を淹れて写真を撮ってみる。
― なんか、インフルエンサーの写真っぽい!
楽しくなった未来は、Instagramで“futurewishlist”という新しいアカウントを作ると、写真を投稿してみた。
ニコライバーグマン、エルメス、港区、とハッシュタグをつけると、早速「いいね」がつき始める。
― ああ、一人暮らしってオシャレで楽しい!
友人だけに公開している方のアカウントでもシェアすると、大学のテニスサークルの友人たちからコメントが来た。
その流れで、大学時代の仲間で女子会をしようという約束までできた。未来は満足げな表情で、バスタブにお湯を入れに立ち上がった。
◆
数週間後の週末。計画していた女子会が開かれた。
― お店はいつもサークルで使っていたチェーン店か。本当は、『キャンティ』でも行きたかったけど、まあ仕方ないよね。
笹崎の影響で、最近店選びに厳しくなっている自分を戒める。
店に入ると、懐かしい顔ぶれが手招きしていた。
「未来、久しぶり!こっちこっち」
「本当に久しぶり…みんなも、この店も」
言われるままに座り、スパークリングワインのグラスを受け取ると、時間が一気に引き戻される。
「ねえ、先月の同窓会、どうだった?」
実はサークルの同窓会があったのだが、未来は、皆で乾杯した後、笹崎に急に呼び出されてドタキャンしたのだった。
「めっちゃ人来てたよ。早稲田の男子たち、商社とか外銀勤めがたくさんいて、やっぱりインカレ入って良かったって感じ」
友人の素直な感想に苦笑いしつつ、未来は知りたかったことをそっと尋ねた。
「悠斗は…来てた?」
「ああ、悠斗くんね。欠席だったよ。未来が来るなら行かないって」
「ああ、そうなんだ。悪いことしちゃったな」
― 悠斗、元気かな?
笹崎のペースについて行くのに必死な今の恋とは全く違う、穏やかだった悠斗との時間が懐かしい。
「悠斗くん、一級建築士の試験に合格したらしいよ。理工学部卒の子たちが言ってた」
「本当に?良かったよお…」
ついに、悠斗は悲願を達成したのだ。
― 私たち、やっぱり別れて良かったのかも。
「ねえ、私、未来の新しい彼の話が聞きたいんだけど」
なんとなくしんみりしてしまった雰囲気を、別の友人が明るく変えてくれる。
「今の彼?うーん、17歳年上の経営者でね…」
「ひぇー!」
未来が話し始めると、友人たちの悲鳴とも歓声ともつかない声が一斉に上がった。
【未来のWISH LIST】
☑ビールのおいしさを知る
☑一人でカウンターのお寿司を食べる
☑ビジネスクラスの飛行機に乗る(欧米路線)
☑一人暮らしをする
☑英会話教室に通う
☑ハワイのハレクラニに泊まる
□100万円単位の衝動買いをする
□海外から優秀な人材を採用する
☑プロジェクトリーダーになる
□昇進する
▶前回:「今から会える?」深夜にベンツで20代OLを迎えに行き…。43歳・港区経営者のリアル
※公開4日後にプレミアム記事になります。
▶1話目はこちら:コロナに新卒時代を阻まれた「不遇の世代」、学女卒25歳は…
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悠斗の近況が気になる未来。笹崎との関係にも変化が?