子どもが描く「自分の生きる世界像」
東京のおしゃれな街で人気のパン屋さんを営んでいるある男性は、幼稚園のころすでに「どうすれば世界は平和になるんだろう」と考えていたそうです。そして青年になり、アフリカ大陸をバイクで横断したり、フランスでパン屋に住み込みで働かせてもらったり、帰国して国連難民高等弁務官の外郭団体でボランティアをするなかで、インドで理不尽な差別を生んでいるカースト制度にパン屋がないことに気づきます。
それなら下層の人々を救うために、彼らにカーストの階層にはない新しい職業であるパン屋を営む方法を教えればよいと思いついて、まず自分がパン屋になったところ、それが人気店になってしまったというのです。
学校の成績は決して良くなかったけれど、なぜか子どものころから「コンビニが店ごとに店内の造りが違うのはなぜなんだろう」という疑問を持ち続け、そこから経済の仕組みに関心がつながって起業家として成功した人がいます。
さらに、幼いころから両親の働く姿を見てその仕事に関心を自ずと寄せるようになった人、逆に親のようになりたくないと思って、それとは正反対の分野に関心を向けようとする人もいます。
その才能が社会的にはっきり目に見える形で発揮されるまでには20年くらいの時間がかかるとはいえ、それでも人生の最初の20年余りに、その人の遺伝的才能は、そのおよその姿をどこかであらわしているといってよいでしょう。
そしてその原初的な方向性は、いまの日本ならおそらく小学校高学年ぐらいになるまでに、自ずと世の中にあるさまざまな事柄に対して、自分の好きなこと、嫌いなことの濃淡としてあらわれてくるものです。
それをはっきり自覚する人もいますし、自覚しない人もいます。その関心の強さが誰にでもわかる形ではっきり行動にあらわせる人もいますし、心の奥底でひそかに感じているだけの人もいます。
しかしどんな人にとっても、それが幼い子どもであっても、世界はどこを見てもかわり映えのない無味乾燥とした平坦なものではありません。自分が投げ込まれたリアルな世界が発する膨大な刺激の中から、自分の心に関連を感じられる刺激にウエイトを置いて反応し、その子独自の「自分の生きる世界像」をつくり上げていると考えられます。
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個人の経験が脳に与える影響
なぜそのようなことが起こるのか。これはまだ仮説にすぎませんが、その背後には世界についての知識の習得、別の言い方をすれば世界を理解するその人なりの内的モデルが、脳の神経ネットワークとして形成され、それに導かれて心を動かし、考え、そして行動し、その結果新たな知識を得て、その内的モデルを更新する、それが繰り返されるという仕組みがあるからだと思われます。
特にかかわっていると考えられるのがデフォルト・モード・ネットワークです。脳のアイドリング機能と呼ばれ、何もしないでボーッとしているときや寝ているときでも働き、脳活動全体の多くを占めて、その人の経験や記憶を自分自身と結びつけて形作っている部分です。
ここをつかさどる帯状回や海馬は、いわゆる知能検査や学校での勉強、さらにさまざまな知的課題を解くときに使われる前頭頭頂ネットワークの部分と比べて、その神経細胞の密度や表面積に占める遺伝の割合が、相対的に小さいことが知られています[図表1]。
その代わり、非共有環境の影響が大きいのです。前頭葉や頭頂葉の遺伝率は90%以上であるのに対して、帯状回や内側側頭葉が50%ですから、いずれにせよ遺伝の影響は大きいのですが、重要なのは、個人の経験がデフォルト・モード・ネットワークにかかわる部位では効いてくる、つまり個人的な経験が脳構造にすら影響を及ぼすということです。
子どもの住む世界が家庭から社会へ、身の回りの世界からテレビやインターネットを通じてつながる世界、そしてこれから起こるかもしれない未来の世界へと広がる。これは社会的な動物、文化によって生きる動物であるヒトがもつ必然的な特徴であり、それが家庭を離れて外に向かうのは成長の当然の帰結です。
その結果、家庭環境による違いや、親の子育てのやり方の違いとしての共有環境の影響が小さくなるのは、喜ぶべきことでこそあれ、嘆くことではないと思いませんか。
安藤 寿康
慶應義塾大学名誉教授・教育学博士