2024年の歴史的円安を受けて、円高時代への回帰を求める声を聞くようになりました。しかし、円高が必ずしも日本経済に良い影響ばかり与えるわけではないといいます。森永卓郎氏の著書『書いてはいけない 日本経済墜落の真相』(三五館シンシャ発行、フォレスト出版発売)より、1985年9月のプラザ合意で起きた円高の影響を詳しくみていきましょう。

日本経済のターニングポイントは「1985年8月~9月」か

太平洋戦争の敗戦で焼け野原と化した日本は、GHQの支配下に置かれ、主権を失った。すべての政策はGHQ(実質的にアメリカ)の判断を仰がないと決められない「占領下」に置かれたのだ。

しかし、日本人のたゆまぬ努力の積み重ねによって、奇跡と呼ばれた高度経済成長を通じて、日本は世界でのプレゼンスを高めていた。ジャパンマネーが世界中の資産を買いあさり、1980年代後半には、東京の山手線の内側の土地だけでアメリカ全土が買えると言われた。日本経済は世界一の地位にまでのぼり詰めたのだ。

外交面でも1951年9月8日に連合国諸国と日本との間でサンフランシスコ平和条約が締結され、日本は占領状態から脱却し、形式的に主権が認められるようになった。主権というのは、自分の国の政策を自分で決められる権利のことだ。

そして、1975年11月にフランスのランブイエで開催された第1回主要国首脳会議(通称ランブイエ・サミット)で、日本はアメリカ、イギリス、西ドイツ、フランス、イタリアとともにG6の一員として参加することになった。

日本は、世界のトップ6の仲間入りをしたのだ。私も含めて、誰もが日本は完全に主権を取り戻した、少なくとももうすぐそうなると考えていた。

ところが、1985年8月の日本航空123便の墜落事件の後、時計が突然逆回転を始めた。戦後40年かけて築き上げた日本の主権が音を立てて崩れ落ちていくことになる。

日航123便の墜落からわずか41日後の1985年9月22日、先進5カ国の大蔵大臣、中央銀行総裁がニューヨークのプラザホテルに集結した。

この場で「プラザ合意」と呼ばれる日本経済にとって致命的な決定がなされた。表面上は、為替を安定させるという合意だったが、実態は、各国の協調介入によって、急激な円高をもたらすものだった。

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プラザ合意が日本経済に与えた“致命傷”

実際、プラザ合意直前まで、1ドル=240円台だった対ドル為替レートは、1987年末には1ドル=120円台の超円高となった。2年あまりで2倍の円高がもたらされたことになる。

2倍の円高になるということは、日本のすべての輸出商品に100%の関税をかけるのと同様の効果を持つ。大雑把な話をすれば、日本から輸出した商品の現地価格がいきなり2倍になってしまうということだ。

経済評論家のなかには「円高は日本経済が強くなった証拠なので円高のほうが望ましい」と言ったり、「輸入品を安く買えたり、海外旅行に安く行けたりするのだから、国民生活にとっては円は高いほどよい」などと解説したりする人もいる。

もちろん、そういう側面もあるのだが、経済全体としてみると、円高は必ず経済にマイナスの影響を与える。

私は、シンクタンク勤務の時代、ずっと「経済モデル」という経済の模型を作って、さまざまなシミュレーションをすることを生業にしてきた。その経験で言うと、どんな経済モデルを使っても、円高は輸出の減少を通じて、必ず経済の失速をもたらす。

実際、1985年に42兆円だった日本の輸出総額は、86年には35兆円、87年には33兆円と急減していった。

輸出不振は自動車産業をはじめあらゆる製造業にダメージ

輸出不振は、日本の産業界で唯一高い国際競争力を守ったと言われる自動車産業にも襲いかかる。

四輪車の輸出台数は1985年に673万台を達成していたのに、そこをピークとして、その後ずるずると減っていき、2022年には381万台と激減している。日本の自動車産業が世界一の地位を確保したのは生産拠点を海外に移したからなのだ。

同じことは、あらゆる製造業で起きているのだが、ひとつだけ私の個人的な趣味であるミニカーの事例を話させてほしい。