世界中で大人気だった「トミカ」がアメリカ市場から消えた理由

「3インチミニカー」と呼ばれる全長8センチ程度のミニカーは1950年代から1960年代にかけてイギリス・レズニー社の「マッチボックス」が世界市場を席巻していた。しかし、1960年代後半にアメリカ・マテル社の「ホットウィール」が登場すると、市場が激変した。

ピアノ線の車軸を採用したホットウィールは高速走行が可能だったため、それまで子どもたちが指先で転がして楽しんでいたミニカーが、レールの上を猛スピードで走行する玩具に変貌してしまったのだ。

ホットウィールの爆発的なヒットに、マッチボックスも対応せざるをえなくなった。ピアノ線の車軸を採用するだけでなく、サイケ調の塗装や、現実には存在しない改造車のボディと、実車とはかけ離れたミニカーばかりをリリースするようになってしまった。これによりマッチボックスのファンは離れていった。

そこに登場したのが1970年に発売された日本の「トミカ」だった。実車に忠実なモデルである上に、トミカは世界最高の品質を当初から実現していた。

私は、発売当初からのトミカをほぼすべて持っているのだが、初期モデルは発売から50年以上経つというのに、ボディや部品の傷みがないどころか、塗装の輝きさえ衰えていない。まさにメイド・イン・ジャパンの真骨頂だった。

もともと日本市場を意識して製造されたトミカだったが、すぐにその人気は世界に広がり、とくにアメリカ市場では大歓迎された。

私は1980年の大学卒業直前に、グレイハウンドのバスでアメリカを一周する貧乏旅行に出かけたのだが、少し大きな街のスーパーマーケットでは必ずトミカが売られていた。ポケットカーと名付けられたトミカは、一つ99セント程度だった。

ところが、1985年のプラザ合意で市場は激変した。もともと子どものおもちゃだから、売価を2倍にしたら、誰も買ってくれなくなってしまう。ポケットカーは安い香港製や中国製のミニカーにとって代わられ、80年代のうちに市場から姿を消してしまったのだ。

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森永卓郎「プラザ合意は日本経済への集団リンチ」

そうしたことが、日本の製造業のあらゆる分野で発生し、日本経済は深刻な「円高不況」に陥った。まさにプラザ合意は、日本経済への「集団リンチ事件」だったのだ。

もちろん、日本の輸出を制限しようとするアメリカからの圧力はそれまでもあった。

たとえば1981年の日米自動車交渉では、日本政府と自動車業界が、対米自動車輸出台数を前年実績以下に制限する「自主規制」を導入した。同様のことは鉄鋼や繊維でも行なわれていた。ただ、交渉の席で、日本側は徹底的に戦い、ギリギリの落としどころを探っていた。

一方、プラザ合意の場合は、急激な円高が日本経済に致命的な打撃を与えることが誰の目にも明らかであったにもかかわらず、日本政府は“無条件降伏”を呑んだのだ。常識的に考えて、ありえない政策決定が行なわれたことは間違いない。
 

 

森永 卓郎

経済アナリスト

獨協大学経済学部 教授