日本社会の「体育会系精神」は学校教育で養われてきた? 運動会「子どもの組体操」に感動する大人への“違和感”

パワハラ、体罰、過労自殺、サービス残業、組体操事故……。日本社会のあちこちで起きている時代錯誤な現象の“元凶”は、学校教育を通じて養われた「体育会系の精神」にあるのではないか――。

この連載では、日本とドイツにルーツを持つ作家が、日本社会の“負の連鎖”を断ち切るために「海外の視点からいま伝えたいこと」を語る。

第1回目のテーマは、運動会の「組体操」への違和感。組体操は、スポーツ庁が2016年に発出した事故の防止に関する通知によって全国的に廃止の動きが加速したものの、いまだに「完全廃止」とはされていない。

※この記事は、ドイツ・ミュンヘン出身で、日本語とドイツ語を母国語とする作家、サンドラ・ヘフェリン氏の著作『体育会系 日本を蝕む病』(光文社新書)より一部抜粋・構成しています。

理不尽なことだらけの「ピラミッド」

一人ではできないピラミッド。そう、ピラミッドこそ究極の団体競技でありチームワークが大事です。そして、まさにそこに深い闇があるといえましょう。

本番の運動会当日に、誰かに「すごい!」「子どもなのに素晴らしいチームワーク!」と思ってもらうがために子どもたちは過酷な練習を重ねます。

練習といっても身体を動かすなど健康的な練習ならいいのですが、ピラミッドの練習は、「他の児童の重さに耐える我慢」ですから、全くもって身体に良くないわけです。

さらに問題なのは、児童が「組体操やりたい?」と意思確認をされないまま、命の危険も伴う実践に駆り出されることです。背が高いとか太っているからなどの体格面で勝手に判断されて、巨大ピラミッドの一番下のポジションに指定されてしまったり(下にいればいるほど上にいる人は多くなり、崩れた時に上から降ってくる人の数も多くなります)、まさに理不尽なことだらけです。

「ピラミッドの構造上、体格が良い人が下の段なのは当たり前だ」という声が聞こえてきそうですが、そもそもの問題は子どもに「ノー」という選択肢がないことではないでしょうか。

「感動」をねじ込んで言うことを聞かせている

ピラミッドや組体操が再三危険だと言われているにもかかわらず、その人気が根強いのは、出来上がったピラミッドを見て「感動」する大人が多いからだとか。

「小さかったあの子が、お友達と一緒に毎日頑張って、みんなと力を合わせてこんなことまでできるようになったのね…(ホロッ)」といった感慨に親たちはふけるのです。

これはこれで気持ちは分からなくもないのですが、目の前のピラミッドがいつ崩れて怪我人や死亡者が出るか分からないような状況で、ホロッと涙している場合なのでしょうか。私が親なら絶叫します。

こんなことを書くと、しょせん西洋人には日本人の心というものが分からないのだとお叱りを受けそうですが、わが子の成長について、もちろん欧米でも感動する親はいます。

ドイツの学校にはピラミッドや組体操はありませんが、日本でいう七五三にあたるとも言える教会の行事「堅信」(ドイツ語Firmung、自らの意思でカトリック教徒でい続けることを選ぶ思春期ぐらいの子を対象に行われる行事)で、ウルウルしている親はけっこういるのです。

ドイツで行われる「堅信」はだいたい子どもが13、14歳ぐらいの年齢で、正装してすっかり大人並みに体格の良くなったわが子を見てウットリするというわけです。堅信で教会に行くと、あちらこちらから鼻をかんでいるような音が聞こえてきたりします。

「感動」は、頻度としては西洋文化圏よりもニッポンでよく見られる現象であることは確かなのですが、「子どもの成長にこみ上げてくる思い」というのはどこの国も共通しているものだと思います。

ただ、学校などの教育現場で「感動」が登場する数は圧倒的にニッポンが多いです。というよりも、いたるところに「感動」なるものをねじ込んで子どもに言うことを聞かせている印象です。小学校の読書感想文では「感動しました」と書くと大人に喜ばれる傾向がありますし、とにかく感動するのはいいことで、そのためにはなんでもありという印象を受けます。

感動をやめられないのは「心も身体も気持ち良くなる」から?

ここまで書いて、自分がとても感じの悪い人になっていると気づきました。言い訳するわけではないのですが、実は私自身も柄に合わず「感動屋さん」だったりします。

ふと目にしたネットニュースやテレビを見ながら、感動で涙がこみ上げてくることがよくあります。お涙頂戴の話にも弱いです。テレビなんかを見ていて、それらしきナレーションがあったりすると、すぐに共感してハマってしまい、気がつくと泣いています。

けれども、最近はその後に「待った待った」と反省することが増えました。少し時間が経って冷静になってみると、「弱い立場の人が何かを強いられて頑張っている姿に私が感動するのって何か違う。なんでこんな美談に引っ掛かったんだろう」と自己嫌悪に陥ることもあります。

それなのに、またテレビを見て似たような話があると、やはり泣いてしまいます。「感動する」って、もしかすると心も身体も気持ち良くなることだからこそ、なかなかやめられないのだと最近になって気づきました。

『体育会系 日本を蝕む病』(光文社新書)より

「感動ポルノ」の問題点

少し前に「感動ポルノ」という言葉がありました。

「24時間テレビ」関連でよく出てきた言葉ですが、健常者が障害者に課題を強いる形で、「一生懸命になって頑張る姿を見てみんなで涙を流す」というような場面を見ると、自分も感動しながら、確かに「感動したで終わらせるべき話ではないかもしれない」と思うことがあります。そうした「感動」は必ず時間の経過とともに私の中で後味の悪いものとなります。

「自分よりも立場の弱い人が、ムリと思われる課題に一生懸命取り組んでいる」ということに日本人は感動しがちです。でも、それこそが問題です。

ピラミッドで言えば、大人が趣味として定期的に社会人や主婦などが公民館などに集まってやるのならいいと思います。それを見て感動するのも勝手です。でも子どもたちは、大人が感動したいがためにピラミッドを「やらされている」わけです。

ナルシストっぽいかもしれないが…「自分に感動」したほうが“よほど健全”

これは、自分自身にも言い聞かせたいことなのですが、人の苦労を見て好き勝手に感動する前に、自分で頑張って自分に感動してみたいものです。

自分に感動って、歯がゆくてなかなかできるものではないし、ナルシストっぽいかもしれませんが、他人が苦労する姿に感動するよりも、よほど健全だと言えるでしょう。何よりも「他人に苦労を強いて感動する」人が自分も含めて減れば、世の中だいぶ平和になると思うのです。

最近、私はかつて失恋した時によく通った場所を訪れて「今の自分はこんなに元気! ここまでよく頑張った!」などと現場で一人ニヤニヤして怪しい人になっていることがあります。でも、自分に感動して完結しているので許していただきたいです。

「当時の落ち込んでいた自分に今の自分の姿を見せてあげたい!」

そんな気持ちになりながら、何となく「私はすごい!」という自己肯定感を持つことにも役立っている気がします。周りの人から怪しまれるかもしれませんが、みなさんもお試しを。