恋は、突然やってくるもの。
一歩踏み出せば、あとは流れに身を任せるだけ。
しかし、最初の一歩がうまくいかず、ジレンマを抱える場合も…。
前進を妨げる要因と向き合い、乗り越えたとき、恋の扉は開かれる。
これは、あるラブストーリーの始まりの物語。
▶前回:「離婚したのに、つい頼っちゃう…」バツイチ女性が元夫とこっそり連絡をとるワケ
前髪同盟【前編】
「俺たち、会うのはこれで最後にしないか?」
恋人の哲道が、申し訳なさそうに切り出した。
テーブルの上には、由紀恵の用意した夕食が手つかずの状態で並んでいる。
由紀恵は既視感のような感覚をおぼえつつ、問い返す。
「それって、別れる…ってこと?」
哲道は何も言わず、コクッと首を縦に振った。
「え…なんで?私、何か嫌われるようなことしたかな?もしそうだったら教えて。これから気をつけるから」
「そういうわけじゃないんだ。ごめん…」
「美味しくないかもしれないけど、こうやって料理も作ってたし。掃除とかもちゃんとしてたよね?私、男の人の気持ちってあんまりわからないから、何か気に障るようなことしてたら教えて欲しいの」
由紀恵が身を乗り出して迫ると、向かいに座る哲道は表情を曇らせた。
「そういうとこだよ」
「え…?」
「重いんだよ。なんか、見返りを求められてるみたいでさ。プレッシャーなんだよ」
ウンザリした様子で言われ、由紀恵の頭のなかに過去の記憶がフラッシュバックする。
― まただ。私、いっつもこう…。
由紀恵はこれまで何人かの男性と交際してきたが、別れのシーンはいつも同じような状況を迎えていた。
由紀恵は、哲道の顔をじっと見つめる。
― 別れたくないよ。2年も付き合ったんだし…。哲道のことが好きだよ…。
伝えたいことはたくさんあるが、言葉が出ない。
すると、哲道がため息まじりに言った。
「あと、その目」
由紀恵は言葉の意図が汲み取れず、首を捻る。
「たまにあるけど、そうやって何も言わないでじっと見据えてきてさ。なんか、怖いんだよ」
由紀恵は、前髪をまぶたにかかる手前で切りそろえているため、目もとが強調される。
額を隠すのは自信のなさの表れであるにもかかわらず、放たれる視線が威圧感を与えてしまうことがあるようだった。
「気まずいのとか、嫌じゃん。だから、別れよう」
哲道は、今度はあっさりと諭すように言った。
もう躊躇いは感じられない。
こうなると、いくら抵抗しても無駄なのは承知している。
由紀恵は恋愛経験が少ないものの、類似した状況は何度か経験済みのため、飲み込みも早かった。
「うん、わかった」
週末。由紀恵は、学生時代からの友人である涼子と食事に出かけた。
お互いに韓国料理好きということで、表参道にある『shiari samgyetang』を選んだ。
サムゲタンの専門店で、薬膳の香りに食欲がそそられる。しかし、由紀恵はいまいち箸が進まない。
「そっかぁ。また『重い』って言われちゃったんだぁ」
先日の哲道とのやり取りを伝えると、涼子は残念そうに言った。
大学を卒業して5年が経つが、涼子とは今でもまめに連絡を取り合い、食事をしながら近況を報告していた。
涼子は恋愛に積極的なタイプで経験も豊富。忌憚ない意見を聞かせてくれる貴重な相手だ。
「でも、別れたくなかったんなら、もっとちゃんと気持ちを伝えないと」
「伝えようとは思ったんだけど、また重いって思われても嫌だなって…」
「付き合って2年くらいだよね。同じ職場の人だったっけ?」
「取引先の会社の人だね」
由紀恵は大手通信機器メーカーに勤めており、打ち合わせで訪ねて来ていたIT会社の哲道と何度か顔を合わせるうちに親しくなり、交際が始まったのだ。
「前の彼氏も職場関係の人だったよね?由紀恵はコミュニティが狭すぎるよ」
社交性に乏しく、男性とあまり交流を図ろうとしない姿勢に関して、由紀恵はよく指摘を受ける。
「それに、男への免疫がなさすぎる」
いつも同じ失敗を繰り返しているからか、涼子の口調はやや強くなる。
確かに、由紀恵は小中高と私立の女子校に通っていたため、男性への対応の未熟さは否めない。
「もっと、飲み会とかに参加したらどう?」
「う~ん…。飲み会に行くんだったら、映画を観たり、本を読んだりする時間にあてたくって。それに、お酒あんまり好きじゃないし」
由紀恵の発言を聞き、「はぁ」と涼子が大きくため息をついた。
「そんなこと言ってたら、また同じこと繰り返すよ?」
あきれ顔でたしなめる。
「それに、本当は彼氏とも別れたくなかったんでしょう?自分の口から伝えられなかったのは、相手との距離感が掴めてないからじゃない?そういうのも男慣れしてないからだと思うよ」
「そうなんだけど…」
涼子の言う通りではあるのだが、いざ行動に移そうとすると気が重くなる。
だが、年齢的にも結婚を見据えた交際を望んでいる。改善を図らなければいけないという思いも、確かにあった。
「よし。じゃあ近々、私が飲み会を開くから。由紀恵は必ず参加すること。いい?」
「う、うん…」
気が進まないながらも、ポジティブな姿勢を保とうと、一応は参加の意思を示した。
◆
2週間後。涼子は宣言した通り、飲み会を開催した。
イタリアンレストランの個室に、テーブルを挟んで男女4人ずつが向かい合って座る、いかにもな陣形が敷かれている。
男性陣に関しては、「かなりイケてると思う」と涼子から前情報を与えられていた通り、大手企業に勤めるハイスペックな者たちが並ぶ。
女性陣もそれぞれ華やかな容姿をしており、和気あいあいとした賑やかな会となっていた。
由紀恵も周囲に不快な思いをさせないよう相槌を打ち、愛想笑いを浮かべて対応していた。
― はぁ…。みんなすごいなぁ…。
誰かが話を切り出せば、別の誰かが話題をさらに膨らませ、また別の誰かが気の利いた感想を述べる。
かと思えば、その陰でスタッフに声をかけて注文をとったり、料理を取り分けたりする者もいる。
まるで打ち合わせでもしていたかのように役割分担がなされ、うまく歯車を噛み合わせて立ち回っている。
― 私が馴染めるようになるまで、いったいどれくらいの時間がかかるんだろう…。
これが男性への免疫をつける方法というのなら、身につくまでに何度繰り返さなくてはならないのかと思い、由紀恵は気が遠くなる。
ただ、男性のなかにひとり、同じように場に馴染めていない様子を見せる人物がいることに、由紀恵は気づいていた。
中尾という名のその男は、言葉数が少なく、時おり引きつったような愛想笑いを浮かべている。
― あの人、あんまり楽しそうには見えないな…。
髪型はマッシュヘア。前髪の重たい風貌に親近感をおぼえた由紀恵は、なんとなく彼の動向が気になった。
席替えがおこなわれ、由紀恵は中尾の隣に座った。
賑わうグループとのあいだに中尾を挟むポジションだ。
そのグループはSNSの話題で盛り上がり、飼っているペットの写真や、旅行先の景色の写真などを見せ合っている。
すると、男性陣の誰かが中尾に声をかけた。
「中尾は、SNSを何もやってないんだよな」
物珍しいものを見るような視線が中尾に集まる。
中尾がきまり悪そうに、「ああ、そうなんだ」と答えた。
話題の対象はすぐに移り変わるが、何か理由があるのではないかと気になった由紀恵は、尋ねてみた。
「どうしてSNSをやられてないんですか?登録もしてないんですか?」
SNSに関しては、由紀恵も頻繁に更新はしてはいなかったが、世間の話題に遅れないようチェックはしていた。
「以前付き合っていた彼女が、そういうのイヤがって…。アカウントを削除されちゃったんです」
「ええ…。それは、ずいぶん厳しい方ですね」
― 束縛ってやつね…。
SNS上での男女の交流は、問題視されるところ。
由紀恵も否定的な立場なので、その元彼女の気持ちに察しはつくが、やり過ぎの感がある。
「キッパリと断ればよかったんだけど、それができなくて。だから、僕も悪いんです」
― 彼女に気をつかって、言えなかったのね。
相手に合わせて譲歩し過ぎてしまう姿勢に、由紀恵は共感をおぼえる。
さらに、次にささやくように発した中尾の言葉に、ハッと息を飲んだ。
「実は僕、恥ずかしながら女性に対する免疫があまりなくて…。こういう場もちょっと苦手なんです」
由紀恵は“免疫”というフレーズに大きく反応した。
そして、体を中尾のほうに向けた。
「私もなんです!」
声が大きくなり過ぎたと思いすぐに口をつぐんだが、向こうのグループに気にしている様子はない。
視線を戻すと、中尾も表情を崩し、安心した様子を見せていた。
「男の人に免疫をつけるように涼子に言われて、今日は参加したんです」
「僕も同じです。『リハビリだ』って言われて」
由紀恵の口から自然と言葉が出た。
「よかったら、連絡先を交換しませんか?」
今までなら躊躇っていたであろう要望が、すんなりと伝えられた。
2人は互いに重たい前髪に隠れそうな目を細め、ニッコリと微笑み合いながらスマートフォンを近づけた。
◆
飲み会が終わり、由紀恵は自宅へと戻るタクシーのなかで、涼子にLINEを送った。
今日は、参加に及び腰で、開始後もしばらくは気後れする時間が続いたが、後半からは緊張が解けて楽しく過ごすことができた。
なにより、同じ境遇の異性と出会えたという収穫が大きい。
今は少し、気分が浮かれているくらいだった。
哲道と別れてから鬱屈した状態が続いていたが、胸の内に漂う深い霧に、ようやく晴れ間が見えてきたような感覚をおぼえる。
涼子に誘ってくれたことへの感謝を伝え終えたあと、哲道にLINEを送った。
『由紀恵:今日はお会いできて良かったです』
素直な感想を伝えると、『僕もです!』とすぐに返信が来た。
『由紀恵:よかったら同盟を組みませんか?』
由紀恵からの提案は、異性に対する免疫をつけることを目標に掲げ、情報を交換し合い、互いに成長を促していこうというものである。
一風変わった提案ではあるものの、そこは同じ境遇にある身。中尾はすぐに真意を汲み、要求を受け入れた。
『中尾:お互いに頑張りましょう!』
目標達成に向け、エールを送り合う。
その後のLINEのやり取りで、2人の共通した容姿の特徴から『前髪同盟』と名づけられた。
同じ境遇にある者同士の同盟が、結成されたのだ。
しかし…。
▶前回:「離婚したのに、つい頼っちゃう…」バツイチ女性が元夫とこっそり連絡をとるワケ
▶1話目はこちら:職場恋愛に消極的な27歳女。実は“あるコト”の発覚を恐れていて…
▶NEXT:11月18日 月曜更新予定
異性への免疫をつけるため同盟を組んだ男女。親しくするうちに別の感情が芽生え始め…