美しく静謐な文章で、孤独や喪失を描いてきた小川洋子さんの新作短編集『耳に棲むもの』。
自分だけのかけがえのない宝物を持つことで、人生は豊かになれると気づかされる一冊です。
役に立たないことに夢中になれるのは、人生の喜び
緻密な描写によって紡がれる小川洋子さんの世界に、存分に浸ることのできる『耳に棲むもの』。
VRアニメーションの原作として書かれた本作は、耳に骨のかけらでできた音楽隊と2匹のエビを住まわせている少年が主人公の物語です。
「目や鼻と違って、耳は常に外に向けて開いていて、完全に遮断するのが難しい。五官の中でも特に神秘的な器官だと思うんです。孤独な少年の中に彼だけの大切な友達―いわゆるイマジナリーフレンドが住むなら、最も住み心地が良いのは耳じゃないか、と考えたところから生まれました」
少年は大人になり、補聴器を売り歩くセールスマンに。
成長後の彼について、VRアニメでは書ききれなかった物語を綴つづったのが、刊行したばかりの同名短編集です。
〝小鳥のブローチ〟を愛好する人々の会合に主人公が招かれる、というストーリーの『今日は小鳥の日』は、5編の中でもとりわけ小川さんらしさが詰まった一編といえそう。
「セールスマンになってからも、彼は華々しい人生というよりは、ひそやかに人々に音を届けていた。そんな彼と同じ気配をまとった人達が集まって、ささやかに喜びを分かち合っている……というイメージで描きました」
作中の〝小鳥ブローチ〟のように、他人から見たら取るに足らないものでも、自分にとってはかけがえのないものを持つことで人生は豊かになる、と小川さん。
「社会では常に目的のために何かをすることが求められていて、そこで成果を出さなきゃいけない。でも、何の役にも立たないことに夢中になれるのが人生の喜びだし、それをいくつ持っているかが大事だと思います」
小川さんにとっての、〝夢中になれるもの〟は、数年前からはまっているミュージカルだそう。
「小説はすべて言葉にしなくてはならないから、小説家は常に言葉の海で溺れそうになっているんです。だからミュージカル俳優やスポーツ選手のように言葉を使わずに表現している人に憧れや尊敬の念を抱くし、言葉なんてなくても、十分に伝わるじゃないかと思ってしまう。
でも、だからといって言葉に失望することはなくて。言葉以外にもこれだけ豊かな表現があって、人間の心の奥が深いのなら、それを小説で書くにはどうしたらいいんだろう? と、必ず小説に帰ってこられるんです」
小川さんが着ているのはお気に入りの「ミナ ペルホネン」のワンピース。
「皆川さんのお洋服を見ると、洋裁が得意で、いつも私の服を作ってくれていた母を思い出して、甘酸っぱい懐かしさがこみ上げてくるんです」
©嶋田礼奈/講談社
『耳に棲むもの』
小川洋子
¥1,980(講談社)
アニメーション作家・山村浩二さんによるVRアニメの原作から生まれた5編の物語。
「VRアニメは、主人公が自分だけに秘密を打ち明けてくれているような親密さを感じました。小説では成長した彼がどんな人と出会い、どんな体験をしたのか……を描いています」
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