◆これまでのあらすじ
大手通信機器メーカーに勤める由紀恵(27)は、男性に不慣れなせいで恋人に「重い」とフラれてしまう。友人・涼子の開いた飲み会に参加し、同じように異性に苦手意識を持つ中尾と知り合う。お互いに現状を打開しようと、同盟を結び…。
▶前回:小学校から私立女子校に通っていたせいで“恋愛弱者”に…。27歳女性の深刻な悩み
前髪同盟【後編】
「由紀恵さんは…ずいぶんとお酒が…強いんですね…」
バーのカウンター席で、由紀恵の右隣に座る男が感心したように言った。
大手不動産会社に勤める進藤という男だ。気を張って平静を装ってはいるが、呂律がうまく回っていない。
友人の涼子から紹介され、挨拶を交わす程度に3人で軽く食事をして、今日は2回目。
2人で銀座のイタリアンでの食事を終えたあと、近くのバーを訪れていた。
「大丈夫ですか?タクシー、呼びましょうか?」
由紀恵が心配して声をかけると、進藤は胸元で手を横に振った。
「いやいや。平気ですよ。まったく問題ないですから」
言葉とは裏腹に、目の焦点が定まらず視線を周囲に泳がせている。
― 私、意外とお酒強かったんだな…。
もともと由紀恵は酒の味を好まず、普段から口にしていなかった。
ただ、男性と食事をともにするにあたり、最初から飲まない姿勢を貫くのは気勢をそいでしまうかもしれないと、形だけでもと白ワインを注文。
しばらく傍らに置いていたが、あまりに進藤が美味しそうに飲むので、舌を湿らせる程度に口に含んだ。
すると、思いのほか口当たりがよく感じられた。
様子を見つつ少しずつ飲んでみたところ、体に大きな変化はなく摂取できていた。
そして、同じペースで飲んでいた進藤のほうが酒に酔い潰れている状態となっている。
「あぁっ!」
進藤がテーブルに腕をのせたところ、勢い余ってグラスを倒しそうになる。
― これはもうダメだ…。
由紀恵は黙ってスマートフォンを操作し、アプリを使ってタクシーを呼んだ。
涼子から、男性に対する免疫の低さを指摘された由紀恵は、改善を図るためについに重い腰をあげたにもかかわらず、芳しい結果は得られなかった。
― でも、白ワインなら飲めるってことがわかって、よかったかな。
男性との距離の縮め方などの有益な情報は得られなかったが、それなりに収穫はあったと由紀恵は思う。
そのとき、手に持っているスマートフォンが震える。
着信は、先日“前髪同盟”を結んだ中尾からだった。
バーを出て進藤を見送ったあと、由紀恵もタクシーを拾い、神泉にある自宅マンションに向かった。
中尾からの着信は、由紀恵のSNSのアカウントへの友だち申請だった。
― 中尾さん、新しくアカウント作ったんだ…。
中尾もまた、由紀恵と同様に異性に対する免疫が低く、女性慣れしていないタイプである。
近い境遇であることから共感し合い、これからも情報を共有し、ともに成長し合えればと同盟を結んだのだ。
互いに、前髪がまぶたの上に厚めにかかるヘアスタイルをしており、共通する容姿の特徴から、『前髪同盟』と名づけられていた。
由紀恵は部屋に戻ると、中尾にLINEを送った。
『由紀恵:今日、涼子に紹介してもらった男性と食事をしてきました!』
早速、同士に今日の報告を入れる。
『中尾:おおっ!それは素晴らしい!』
大きな収穫はなかったものの、経験値がひとつ増え、一歩成長したと喜びを分かち合った。
『中尾:実は僕も明日、女性と会う約束をしています!』
中尾からも報告が入る。
相手の女性とは、マッチングアプリで知り合ったとのこと。
『中尾:明日、会ったら彼女にこれを渡そうと思っているんですが、どうでしょう?』
送られてきた写真を見ると、有名なキャラクターのぬいぐるみのようだった。
『中尾:彼女のSNSをさかのぼってみたところ、このキャラクターが好きそうだったので購入しました』
― なるほど。だから新しくアカウントを作ったのね。
相手と会う前に、あらかじめ情報を得ようとしたのだと推測できた。
― でも、初対面でいきなりそんなプレゼントを渡されるって、どうなんだろう…。
会ってもいない相手に個人情報を探られたらいい気はしないのではないかと思ったが、由紀恵は、自分の感覚が正しいのかどうか判断がつかなかった。
『由紀恵:いいですね!明日頑張ってくださいね。いい報告待っています』
プレゼントに関しては曖昧に答えるしかなく、エールを送った。
◆
「キモっ!」
電話の向こうで、涼子が嫌悪感を露わにした声を出す。
由紀恵は、中尾とLINEでやり取りをした翌日、涼子から別件で電話を受けた。
通話中、なんとなく引っかかっていた例の中尾のプレゼントの件について尋ねてみたところ、涼子から返ってきた反応がこれだった。
「やっぱりそうだよねぇ…」
由紀恵が懸念を抱いたのは、間違いではなかったようだ。
「そりゃそうでしょう。SNSで自分から発信しているとはいえ、過去を探られているみたいでいい気はしないでしょう。由紀恵も止めてあげたらよかったのに」
「迷ったんだけど。私の感覚が正しいのかどうかわからなくて…」
これもやはり、男性との距離の取り方に不慣れで、自分の感覚に自信が持てないせいだと由紀恵は思う。
「中尾さん、今ごろその女性と会ってる時間だな。大丈夫かな…」
時計を見ると、まさに店について食事を始めたぐらいの時刻だった。由紀恵は、2人の様子を思い浮かべる。
同盟関係にある同士に対して、適切なアドバイスを送ることのできなかった後悔が胸をよぎる。
― 中尾さん、どんな会話をしてるんだろう。相手を引かせてないといいけど…。
中尾とは共通する部分が多いだけに、女性の対応に戸惑い、あたふたしている姿が容易に想像できた。
せめて軽蔑される行動は避けるようにと、祈るような気持ちにもなる。
ただ、考えるほどにそんな心配とはまた別の、胸がざわつくような感情が自分のなかに芽生えていることに気づく。
由紀恵は感情の正体を模索しながらも、いったんは意識を断ち切って中尾からの報告を待った。
しばらくして、スマートフォンが鳴った。
― えっ!なんで…。
スクリーンには、先月別れたばかりの元カレ、哲道の名前が表示されていた。
哲道からの連絡を読んだあと、夜もまだ浅い時刻に、中尾からもLINEが届いた。
『中尾:プレゼントを渡したんですけど、あんまり喜んでいるように見えなかったんです。やっぱり、いきなり過ぎましたかね』
女性の反応は、由紀恵が予想した通りのものだったようだ。
『由紀恵:実際に会ってみてどうでした?楽しかったですか?』
『中尾:う~ん…。楽しくなくはなかった…というのが正直なところかも』
中尾の感想は芳しくない。
由紀恵にとっても望んでいた結果ではなかったが、どこか安堵するような感覚があった。
『中尾:由紀恵さんは、次に男性と会う日は決まっているんですか?』
予定を尋ねられ、由紀恵はある事実を伝える。
『由紀恵:実は、さっき元カレから連絡があって…』
哲道からの連絡の内容は、明言はしなかったものの復縁を匂わせるものだった。
中尾には、『会って話したい』と言われたことを伝えた。
別れてすぐであれば、素直に喜んでいたに違いない。
しかし、1ヶ月ほど経った現在は気持ちが落ち着き、状況を俯瞰できている。
哲道とヨリを戻したとしても、また同じような道をたどり、同じような結末を迎えるであろうことは想像に容易い。
せっかく吹っ切れて前進し始めたところだから、足枷のない状態で進み続けたいという思いが強かった。
『中尾:彼と会うんですか?』
『由紀恵:どうしようかと悩んでいるところです』
『中尾:彼と会う前に、僕と会ってもらえませんか?』
思いがけない提案だ。物腰の柔らかい中尾らしからぬ、強引な誘い方だった。
由紀恵は申し出を受け入れ、明日、中尾と会うことにした。
◆
翌日。
仕事終わり、由紀恵は待ち合わせ場所となっている渋谷に向かう。
中尾と会い、会話をしながら少し歩き、手ごろな洋食屋を見つけて店内に入る。
パエリアが売りの店らしく、白ワインとともに注文をした。
「あれ?お酒飲まれるんですか?」
中尾が驚いた表情を見せる。
「はい。最近飲めるようになって」
中尾は感心したように頷くと、同じものを注文した。
食事を進めながら、ワインの飲めるようになった過程などを含め、これまでの異性との交流報告をおこなった。
いわば、同盟会議。味方の存在は心強く、異性への苦手意識を改善しようという意欲につながる。
和やかに会話を続けていると、やがて中尾が居心地悪そうに体を動かし、かしこまった様子で切り出した。
「由紀恵さん、元カレと…会うんですか?」
唐突に質問を受け、由紀恵は答えに戸惑う。
「会わないで…もらえませんか?」
声は小さく弱々しいが、重たい前髪の下から覗く瞳が、中尾の思いを強く訴えていた。
「どうして…ですか?」
「昨日、由紀恵さんが元カレに会うと聞いて、なんとなくイヤな気分になったというか…。会って欲しくないなって思ったんです」
中尾の言葉を聞きながら、由紀恵もまた同じ感情を抱いていたことを思い出す。
「正直言うと、僕は、由紀恵さんのことがとても気になっています」
中尾は覚悟を決めたように、真っすぐに由紀恵を見つめた。
「私もです」
由紀恵も、自分の気持ちを打ち明ける。
「私も、中尾さんがほかの女性と会っていると思うと、なんだか胸の奥がモヤモヤしてしまって…」
ぼんやりと抱いていた感情は、言葉にしたことで明確な形を成す。中尾への思いが、由紀恵の胸に焼きつく。
「だから、彼には会いません」
「本当…ですか?」
由紀恵が頷くと、中尾は安心したようにフゥと息を吐いた。
そこからの会話は、互いの関係について方向性を示すようなもの…ではなく、雑談とさして変わらない他愛ないものだった。
結束を深めた同盟相手と、いっそう和やかな会談を続ける。
ただ、これが恋の始まりであることは、互いに恋愛に不慣れながらも心のどこかで察していた。
すると、中尾が思い出したように言った。
「僕、わかったんです。なんで由紀恵さんが、『前髪同盟』なんていうちょっと変わった名前をつけたのか」
中尾はスマートフォンを取り出して、由紀恵のほうに向けて差し出した。
由紀恵のInstagramのアカウントが開かれていた。
数年前に訪れた、ロンドンで撮った景色が映し出されている。
「由紀恵さん。シャーロック・ホームズが好きなんでしょう?これって、ホームズの住んでいるとされるベーカー街での写真ですよね?それに、部屋の写真に、ホームズの小説が写っていたものがあったので…」
中尾はまだ確信が持てていないのか、由紀恵の顔色を窺う。
「調べたら、シャーロック・ホームズの作品に『赤毛連盟』っていう短編小説がありました。そこから名前をとったのでは?」
由紀恵はしばしの沈黙ののち、「その通り」と認めた。
「やっぱり!」
ホームズに勝るとも劣らない名推理を働かせたとばかりに、中尾は得意げな表情を見せる。
「でも、中尾さん…」
由紀恵は少し前に身を乗り出し、中尾に顔を近付け、小声で囁いた。
「ちょっとキモいですよ」
以前に言いそびれた言葉を、今度はハッキリと伝えることができた。
中尾は一瞬ポカンと口を開けたが、すぐに納得したのか気まずそうに笑みを浮かべた。
意思の疎通がスムーズであり、すでに心が通い合っていることに2人は気づく。
もう、ほかの異性の存在など意識する必要のない、居心地のいい時間が続いた。
Fin.
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