原宿の2LDKでルームシェアする24歳女。家賃は助かるけど、ルームメイトの行動が許せなくて…

レストランに一歩足を踏み入れたとき、多くの人は高揚感を感じることだろう。

なぜならその瞬間、あなただけの大切なストーリーが始まるから。

これは東京のレストランを舞台にした、大人の男女のストーリー。

▶前回:「え、ここって?」深夜の六本木。終電を逃した25歳女が男に連れて行かれた意外な場所

「そのままの自分で」エマ(24歳)/ 原宿『竹の下そば』



コーヒーテーブルの上で、遅い朝の光に照らされた空の白ワインのボトルがピカピカと光っていた。

そのかたわらには同じく空のワイングラスと、つまみにしたであろう生ハムのゴミ。

そしてテーブル前のソファには、おそらくひとり夜中の晩酌中に寝オチしてしまったルームメイトの女子──ヒナタの姿があった。

― はぁ…。せっかくの休みなのに、嫌なもの見ちゃった。私やっぱり、ヒナタのこと苦手かも…。

めくれ上がったアメコミ柄のTシャツからは、ヒナタの無防備なおへそが丸見えになっている。

自室からリビングに出てきたエマは、うんざりしながらため息をついた。

― あーあ。この原宿の一等地のマンションが1人で住める値段だったら、すぐにルームシェアなんて解消するのに。

そんなことを考えながらエマは、ソファの肘掛けに腰を下ろし、ヒナタのあられもない姿をじっと見つめる。

すうすうと寝息を立てるヒナタのお腹は、余計な脂肪が一切なくうつくしくくびれている。手足はすらっと長く、まっすぐな首筋はさっぱりとしたショートカットに映えている。

まっすぐ通った鼻筋は、憎たらしいほど形がよく美しい。けれど、その上にパラパラとそばかすが散らかっているのが見えるや否や、エマは無性にイラつきを覚えた。

エマの勤務先は、外資の化粧品会社だ。

成分は全てオーガニックで植物性。動物実験もしていないというこだわりのポリシーを掲げている自社製品は、どれも実力派コスメとして評判が高い。

ヒナタのこの醜いそばかすを、健康的でツヤのある肌からすっかり消し去り、絶世の美女にしてあげることなんて簡単にできる。

けれど、どれだけメイクやスキンケアを勧めても、ヒナタは全く聞こうともしないのだった。



エマが化粧をすすめると、ヒナタはいつも決まってこう答える。

「あたしはいいよぉ、今のままで」

デザイン事務所のアートディレクターという肩書のヒナタは、世間一般で求められる“社会人の身だしなみ”を求められる立場にはない。そのこともあり、ヒナタはいつだって碌なメイクもせずに、そばかすだらけの顔でヘラヘラと笑っているのだった。

おしゃれも適当。手入れも適当。メイクはもちろん、香水の一振りだってしようとしない。気楽を通り越して自堕落にも見えるヒナタを見ていると、エマはイラつかずにはいられなかった。

ルームシェアを始めてもうすぐ1年半という月日がたつ今、エマはすっかりヒナタのことが苦手になりつつあるのだった。

込み上げてくるヒナタへのイライラに耐えられなくなったエマは、肘掛けから立ち上がると浴室へと向かい、バスタブの蛇口をひねった。

お湯が溜まる間に、ミキサーに冷凍のアサイーやベリー、バナナを放り込み、スムージーを作る。ひと瓶2万円近くする酵素ドリンクも入れているから、きっと、昨晩の毒素をデトックスしてくれるはずだ。

― それにしても、昨日の食事会はほんと疲れたな…。

冷たい特製スムージーを飲みながら、エマは深いため息をつく。

昨夜行われた同僚の女の子主催の食事会は、野球選手との焼肉というだけあってか、かなり激しい飲み会の様相を呈した。解散も遅く、普段食べない油っぽい肉をたんまりと食べたせいで、体も重い。身体中に疲れが残っていた。

お肌のことを考えれば、ノンアルコールで22時までには就寝したい。だけど、化粧品会社というのは女の世界だ。付き合いを疎かにして、いつのまにか四面楚歌…という状況だけは避けるべきだろう。

それに、女性として生まれた以上、高スペックの男性と恋もしたい。30になる前に結婚。そのためには、昨日みたいに気乗りのしない相手に対しても、いつだってニコニコとしている方がチャンスは多いだろう。

それが、大学進学を機に福井から上京してきたエマの考え方だった。

― そうよ。だから私は、ヒナタみたいに気を抜いてなんていられない。

そんなボヤキを残りのスムージーと一緒に飲み干してしまうと、エマはまだ寝息を立てているヒナタを横目に再び浴室へと向かう。疲れとスムージーですっかり冷えきった心と体を、はやくエプソムソルト入りの半身浴で温め直したかった。

「はあ〜。それにしても、昨日ヘトヘトで帰ってきたのにちゃんとメイク落としてる私、エライ!」

湯船に浸かりながら、エマは手鏡でじっくり自分の顔をチェックする。

「女は、一瞬たりとも気を抜いたら終わりよね。今日はちょっと体がむくんでるし、胃腸を休ませるためにこの後はプチ断食…」

と、そこまで独り言を言いかけて、エマはハッと息を飲んだ。

鏡の中に見える、自分の顔。少しむくんだまぶた。少々丸いのがコンプレックスの鼻──の、その少し横に、うす茶色いくすみが見える。

「うそ。やだやだやだやだ…」

湯船からザバッと体を起こし、悲鳴を上げる。

「シミ!!!!!

うそでしょ…普段こんなに気をつけてるのに…?」

うす茶のくすみは、まごうことなきシミだ。ヒナタのそばかすとまではいかないまでも、手入れに手入れを重ねて陶磁器のように白くなった肌の上で、存在を主張している。

しばらくじっと手鏡を凝視していたエマは、今度は反対に、全身の力が抜けたようにヘナヘナと湯船の中に体を沈めた。

もう30分は漬かっているというのに、つめたく冷えきった体は、ちっとも温かくなる気配がなかった。

と、その時だった。

「エマぁ?」

浴室の外から気の抜けた声が聞こえる。どうやら、ソファで寝込んでいたヒナタがようやく目を覚ましたらしい。

「大丈夫〜?なんかすごい声聞こえたけど…」

そう言うやいなやヒナタは、躊躇なく浴室のドアを開けた。そばかすだらけの呑気な顔がのぞく。

「ちょっと、急に開けないでよ…。別になんでもないから、ほっといて」

エマは精一杯冷たく言い放ったつもりだったが、どうやらヒナタにはその冷たさは伝わっていないようだった。

それどころか、言葉の意味すら伝わっていないらしい。ふてくされた表情をうかべるエマとは反対に、ヒナタはそばかす顔をニコニコさせながら言う。

「ねえ、お昼食べに行こうよ。今日エマお休みでしょ?この時間なら“あのお店”、入れると思うんだぁ」

湯上がりの肌に日焼け止め程度の薄いメイクでヒナタの誘いに乗ってしまったのは、許すことのできないシミを見つけて自暴自棄になっていたから、としか言いようがなかった。

けれど、鼻歌交じりのヒナタの後ろを歩きながら、エマの胸にはどんどん後悔の念が湧いてくる。

それというのも、原宿の外れに位置する2人のマンションを出てから、ヒナタの足はどんどん竹下通りの方へと向かっているからなのだった。

「ねえヒナタ。私、ファストフードとかは絶対嫌だからね!ヒナタとちがってすぐに太るし、ニキビとかできたら最悪だし」

「うんうん、わかってるよ〜。こっちこっち」

抑えきれないイライラで悪態をつくが、ヒナタはそんなエマの態度などどこ吹く風だ。ぐんぐんと歩みを進め、ついには若者や外国人で溢れる竹下通りの中へと入っていってしまうのだった。

通りにひしめく、美容に悪そうなスイーツやジャンクフードの数々。

見ているだけで憂鬱になる上に、ひゅうと吹き抜ける秋の風が、エマの体を芯からいっそう凍えさせる。

もはや、福井にいた頃から熱烈に憧れていた、原宿そのものまで嫌になりそうだった。

― あ〜もう、なんでヒナタについて来ちゃったんだろう!メイクも香水もしてなくて恥ずかしいし、今日はもうプチ断食するって決めてたのに…。

そう心の中で悪態をつくエマだったが、ふとヒナタの足が、一本裏の路地へとズレたことに気がついた。

「エマ、ここだよ〜。よかった、入れそう」

ニコニコと微笑みながら、ヒナタが指差す方向。

そこには地下へとのびる階段と、古風な字体で『蕎麦』と書かれた、竹下通りらしからぬ看板が立っているのだった。



「『竹ノ下そば』…?え、こんなところにお蕎麦屋さん…?」

おずおずと階段を下りた先に広がっていたのは、ひっそりと落ち着いた、上品な空間だった。賑やかな外とは対照的で、とてもここが竹下通りのど真ん中だとは思えない。

製粉室と打ち場のある本格的な店の中を進み、奥のテーブル席へと通される。手前にある調理場からふわっとつゆと天ぷらの香りが漂い、エマの食欲をそそった。

「ね、エマ。何食べる?私は打ちたてと田舎の2種食べ比べにしようかなぁ」

「あ…えっと、じゃあ私も」

あっけに取られたまま抜け出せずにいたエマは、ヒナタのその言葉にしたがい同じものを注文する。

すると、ヒナタがメニューを広げながら嬉しそうに笑って言った。

「ここ、絶対エマ連れてこようと思ってたんだぁ。きっと気にいるよ」

「ふうん…どうして?」

「かつおだしを使わない動物性原料ゼロのおつゆとか、お野菜とかお豆腐とかのヴィーガン料理もあるんだよ〜。

エマ、いつも食生活にも気をつけてるし、お肉とかそんなに得意じゃないよね。会社のポリシー的にも、そういうの好きでしょ?」

「…そういうの、覚えててくれたんだ」

エマはふと、ヒナタとルームシェアをすることになった1年半前のことを思い出した。

立教大学に通っていたエマと、女子美に通っていたヒナタが再会したのは、小さな会がきっかけだった。

地元福井から、たまたま東京に出てきている仲間で、就職前に開いたプチ同窓会。そこで、「原宿のデザイン事務所に就職するから、近くに住みたいな〜」と言っているヒナタに、エマの方からルームシェアを持ちかけたのだ。

「ねえヒナタ!私も職場が表参道だし、そのあたりに住みたいと思ってたの。ふたりならけっこういい部屋に住めると思わない?私たちルームシェアしようよ」

正直に言えば福井にいた高校時代は、ヒナタとは別に特別仲が良いわけでもない。

エマの提案はあけすけに言えば、打算だ。

憧れだった、東京の原宿に住みたい。

洗練された生活が送りたい。

そんな野望を叶えるのに、ヒナタは単純に都合がいいと思った。

けれどヒナタは、そんなエマの打算など全く気づかない様子で、ただそばかす顔に温かな微笑みを浮かべて応えてくれたのだ。

「エマちゃん、一緒に住んでくれるの?わぁ〜嬉しい!

私、エマちゃんのことずっと、かわいいなぁ、努力家でかっこいいなぁ、仲良くなりたいなぁって思ってたんだ。よろしくねぇ」───

懐かしい記憶は、注文の品が配膳されたことで中断された。

「エマ、見て〜!綺麗だねぇ」

テーブルの上には、2種のお蕎麦が並んでいた。打ちたてと田舎の食べ比べ。

「ほんとだ、綺麗…」

きなり色のつややかな“打ちたて”ももちろんだが、特にエマの目を引いたのは“田舎”だ。

粗挽きにされた蕎麦の実が見て取れる、素朴な風合い。まるで、ヒナタのそばかすみたいだ。濃く深い色合いはいかにも健康的で、自然の豊かさそのものが伝わるようだった。

なんだか厳粛な気持ちになりながら、田舎蕎麦をひとくち箸で持ち上げる。ほんの数センチだけつゆにひたし啜りあげると、口から鼻へと溢れんばかりの蕎麦の風味が駆け抜けた。

「お…美味しい…!」

エマが日頃念入りに身に纏っているコスメや香水の香りが、洗練された都会の華やかさだとしたら、今エマの心に染み入るこの蕎麦の香りは、もっと根源的な、生命の力強さとおおらかさだった。

この香りを楽しむ時に、香水は邪魔にしかならない。素顔のままこの店を訪れた幸運に、エマは思いがけず感謝した。

しっかりと歯に伝わる食感も嬉しく、エマが夢中で蕎麦を食べ終えてしまうまでに5分とかからなかった。

途中で出された蕎麦湯を蕎麦猪口に注ぎ飲み干すと、体の中心からポカポカとしてくる。

ここのところ、メイクをしても、オシャレをしても、エプソムソルトのバスタイムでも得られなかった、ホッとするような温かさ。

心にも体にも栄養が染みわたるような感覚を得たエマは、ようやく答えに辿り着いた。

ヒナタに対する、どうしようもないイライラ。

その正体が他でもない、自信のなさから来る自己嫌悪だったということに。

― そうだ。ヒナタはいい子だ。いつだって私に優しくしてくれるし、自然体でいるだけ。ただ…

ただ、ヒナタがそのままの自然体でいればいるほど、エマは自分自身のことを惨めに感じたのだ。

周りに見劣りしないよう、努力して、背伸びして、無理をして───自分自身を忘れずにいることなんて、できやしない。

追い詰められながら、息を切らせながら生きているエマにとって、ヒナタの自由さは直視するには眩しすぎた。

認めてしまったら、自分自身を否定するように感じたのだ。

ヒナタのそばかすが、誰よりもチャーミングで、美しいということを。

田舎蕎麦のもつ自然本来の美しさで自分に向き合うことができたエマは、ヒナタに向き直る。

「ヒナタ、いつもごめんね。ありがとう」と、そう言おうとした、その時。

ヒナタの方が先に口を開いた。

「なんかさぁ、変なこと言うかもしれないけど。ここの“打ちたて”食べるとエマのこと思い出すんだよね。だから、一緒に来られて嬉しいなぁ」

「…え、ええっ?どこが??」

エマは、こちらが“田舎”にヒナタの姿を見たばかりだというのに、真逆のことを言われたことに動転した。

「うーん。白くて、綺麗で、甘みがあって、洗練されてて。それでいて強さがあって、努力してて…全体的に、かっこいいところ?うまく言えないや!

それよりさ。ここ、うちらの地元のお酒『黒龍』もあるんだよ〜。今日はランチだけど、今度は一緒に夜来たいよねぇ」

そばかす顔にニコニコと笑顔を浮かべながら、ヒナタがいつものようにとぼけた声を出す。

「…ヒナタ」

「ん?」

「なんか…元気でた」

「そっかぁ、よかった〜」

お会計を終えて階段を上ると、竹下通りのど真ん中に出た。

可愛いスイーツや雑貨屋、コスメの店などがカラフルな洪水のように目に飛び込み、エマの好奇心を誘う。

プチプラのコスメでも買って帰ろうか。でも、たまにはコスメや香水をの香りを纏わない日があってもいいかもしれない。お蕎麦の香りがわかるように。

そう思いながら、エマは小さな声で呟く。

「私、やっぱり原宿のこと好きかも」

またしてもヒナタが「そっかぁ、よかった〜」と、上機嫌に返事した。



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