ミドルクラス以上の家庭で過熱化する体験投資ブーム。これまでは「学力」を高めさえすれば一発逆転が狙えた社会だったのが、急激なAI技術の進歩で人間の純粋な「学力」の価値が急速に陳腐化。「豊かな経験」の価値が上がっています。本記事では、御田寺圭氏の著書『フォールン・ブリッジ』(徳間書店)より一部抜粋・再編集し、過熱化する体験投資がもたらす社会の姿について考えます。
タクシーで送迎され習い事に通う子どもたち
校門からタクシーで水泳教室へ──。小学生の習い事が熱を帯びている。幼少期からの教育を重視する志向の高まりと共働き世帯の増加で、親に代わり送迎を担う民間サービスが広がり始めた。家庭が支出する教育費は膨らみ続ける方向にあり、進学格差の拡大を懸念する声も根強い。子どもたちが忙しく動く令和の放課後を追った。
7月中旬の夕方、横浜市立黒須田小学校(横浜市青葉区)前にタクシーが滑り込んできた。運転手は学童保育から1年生2人を車内へ誘導し出発。近くの住宅でもう1人乗せ、約10分後に水泳教室に着いた。児童らは運転手に促されプールへと歩いて行く。
児童らが使ったタクシーはスタートアップのhab(横浜市)が4月から提供している相乗りの送迎サービス。利用料は習い事の教室側が親から徴収するなどして支払う。
(日本経済新聞『小1習い事送迎はタクシー教育熱高まる令和の放課後』2024年7月26日より引用*1)
近頃の子どもたちは、本当に忙しい。
放課後といえば、ランドセルを家に投げ捨てて(なんならランドセルを家に一旦置きに帰る時間すら惜しんで)公園や街に繰り出す子どもにとっての至福の時間──だったのは遠い過去の話で、いまの時代を生きる子どもたちにとっての放課後はさながら「お勉強・後半の部」である。
塾があったり習い事があったりと、かれらの放課後は学校外の活動のスケジュールで埋め尽くされている。週5(場合によっては土日も含めた週7)でなんらかの習い事をしている子もめずらしくなくなった。友達と外で会ったりする時間がない子どもたちが大勢いるからこそ、ニンテンドースイッチでプレイできるゲーム『どうぶつの森』や『フォートナイト』がかれらにとってのコミュニケーションツールにもなった。
習い事をする場所に向かうための移動時間の効率化のためタクシーの送迎を利用しているというのは、いまの大人世代にとってはなにかの冗談のように思われるかもしれないが、とくにミドルクラス以上の家庭の子どもたちにとってはもはや当たり前の日常になりつつあるのだ。子どもたちが望んで習い事をしている側面はもちろんあるが、だれよりも子どもたちにそのようなライフスタイルを望んでいるのは親だ。
(広告の後にも続きます)
「体験投資」が人生を左右する時代
現代社会の親たちは、自分の子どもを「いい学校」に通わせるために教育投資を惜しまないのは言うまでもないが、それだけでなく、とにかく子どもに全体的な投資を惜しまなくなっている。
純粋なペーパーテストの学力を高めるための教育投資(塾・予備校・家庭教師など)は当然ながら、それに加えてアートとかダンスとか外国語とか、そういった文化的・教養的な投資にも大きなニーズが集まるようになっているのだ。かつてなら「教育ママ・教育パパ」と呼ばれていた層の人たちも、ただただ塾に行かせて勉強漬けにするのではなく、塾の次はバイオリン、その次はバレエ、その次はプログラミング、その次は英語や中国語、その次は空手……といった具合に、純粋な学力向上以外のための投資も行うようになった。
近年の子育て世帯の体験投資に対する大きなニーズの拡大は、この社会全体の「採用基準」の変化の写し鏡だ。
じつはいま、世の中では、人材の評価基準に静かなパラダイムシフトが起こっている。人材の評価基準として長年採用されていた、純粋な学力の高低を競い合わせるメリトクラシー的な方法論の信頼性や妥当性が少しずつ揺らいでいき、代わりにさまざまな知的・文化的・社会的体験に裏打ちされた豊かな教養や社会性や人間関係構築能力こそが重視されるようになり、ともすれば学力以上に注目されるようになった。
いわゆる一流大学・難関大学では、これまで「AO入試」といった特殊な入試形式でのみこうした「総合的な人間力」が評価基準として採用されていたが、これからはそうではなくなる。むしろ一般入試でこそそうしたステータスが重視されるようになるのだ。
筑波大の永田恭介学長は29日の定例記者会見で、入試の2次試験を面接と小論文中心に変える意向を示した。(中略)
永田学長は「基本的な学力は共通テストで分かるので、さらに筆記試験をやっても仕方ない。個別試験を変えて、これまで見つけられていなかった才能を見つけたい」と変更の狙いを説明した。
(朝日新聞デジタル『筑波大学長、2次試験を「面接と小論文中心に」の意向5年後めど』2023年6月30日より引用*2)
学力は共通テストで十分にわかるから、「学力試験」では見えない部分の優劣を測りたい──という教育機関の態度は、そっくりそのまま国や大企業のニーズに応える形で拡大している。語弊をおそれず身も蓋もない表現をすれば「お勉強ばかり得意で、社会性やコミュニケーション能力や知的好奇心や文化的素養に欠くような人間を育成・採用したくない」ということだ。
「学力という表面的な能力だけでなく、深みのある人間が欲しい」という評価基準のパラダイムシフトに、中流以上の人びとは敏感に気づいていて、だからこそ小学生ともすれば未就学児のころからほぼ毎日習い事に通わせるような体験投資を行い、自分の子どもを社会的にも文化的にも人間関係的にも深みのある人物にしようと躍起になっている。