ふとすれ違った人の香りが元彼と同じ香水で、かつての記憶が蘇る…。
貴方は、そんな経験をしたことがあるだろうか?
特定の匂いがある記憶を呼び起こすこと、それをプルースト効果という。
きっと、時には甘く、時にはほろ苦い思い出…。
これは、忘れられない香りの記憶にまつわる、大人の男女のストーリー。
▶前回:「あの時、なぜ手放した…?」恋愛迷子の34歳女が気がついた、20代で失った恋の痛すぎる代償
優佳(32歳)彼との同棲
Maison Margiela Fragrances「レプリカ レイジーサンデーモーニング」
「窓から海が見えるなんて、夢みたい…」
優佳は、寝室のブラインドの隙間から見える海を見て、呟いた。隣のベッドには、先月から一緒に住み始めた恋人、正義が気持ち良さそうに寝息を立てている。
「さ、朝ごはんでも作ろうかな」
優佳は、ベッドから立ち上がり、キッチンに向かう。リビングに続くキッチンからも、海が見える。部屋に差し込む冬の太陽はあたたかで、窓の向こうに見える地平線はキラキラと輝いている。優佳が目にしているのは、ずっと思い描いていた幸せの光景だ。
電気ポットで湯を沸かし、キッチンボードからティーポットとカップを2つ取り出す。
正義と一緒に住むことになった時、優佳は住み慣れた港区から湘南に引っ越した。一緒に住むなら、海の見える一軒家がいい、と正義が言い出したことがきっかけだ。
そもそも正義との関係自体が、優佳にとっては夢のようなこと。友達の紹介で知り合い、食事の席がお開きになる頃には、優佳はすでに正義を好きになっていた。優佳の人生で、こんな経験は一度もなかった。
正義は、今まで会った誰とも違っていた。
決して爽やかなスポーツマンタイプでもないし、男らしく引っ張ってくれる感じでもない。ただ、端正でセンスがよかった。仕事は建築士で、知り合った時、彼は29歳で、優佳は28歳だった。
優佳からアプローチしてフラれ、時間を置いて再度アプローチしてフラれ、という切ない片想いを2年ほど続けたあの頃は、優佳にとってはいわば冬の時代。
実際付き合うことになった時は、もう思い残すことはなく、このまま死んでもいい、と思ったほどだ。
恋人の関係になって、早2年。だが、正義を思う気持ちは、まったく変わっていない。
数ヶ月前、正義が「湘南に引っ越そうと思うけど、一緒に行く?」と言い出したときも、ただ一緒に住めることが嬉しくて、場所なんてどこでもよかった。
「正義の行くところにはどこでも付いてくよ。でもサーファーでもないのに、なんで湘南なの?」
海が好きなんて聞いたこともないし、2人揃って通勤が不便になる。片道1時間半かけて都内に通勤するほど、湘南に思い入れがあるようにも見えなかった。
「なんかプライベートは、ゆったり過ごしたいなと思ってさ」
付き合う前からわかってたことだが、正義は何事も一から十まできちっとしている。だから一緒に住む家に関しては、優佳があれこれ口を出すよりも、正義に任せることにした。
正義が不動産アプリで探し出してきた一軒家を借りて、2人で契約をした。
「ベッドはシモンズ、家具は僕の持ってるUSMハラーに足りない分を買い足そう。冷蔵庫と洗濯機はミーレがいいな」
家具は機能面に優れていると同時に、デザイン性の高いものがいいよね、と正義は楽しそうだった。
引っ越しが終わり、部屋が整ってくると、2人の家はまるでインスタグラムで見る、インテリア好きの部屋のように、美しい空間になった。
週末になると、都心から2人の友人たちが遊びにやってきた。バルコニーでバーベキューを楽しみ、海辺を散歩し、リビングでナチュールワインを飲む。
優佳は幸せだった。ずっと片想いしていた人が作った空間で、日曜日に目覚めること。一緒に食べる朝食の美味しさ。自分たちの家にやってくる仲間と過ごす楽しさ。
実際は、通勤に時間がかかるし、自宅に帰ってから家事に追われる毎日だが、それを補ってもあまりある充足感が得られたのだ。
◆
ティーポットに湯を注いだ後、朝食のサラダを作り、テーブルをセッティングした。ダイニングテーブルの近くに設置されたUSMハラーのキャビネットからマットやカトラリーを取り出すとき、ある香りが優佳の鼻腔をくすぐった。
― ほんと、嫌味のないいい香り。
昨夜、正義はベッドルームとリビングに、ディフューザーを買って帰ってきた。
「レプリカ レイジーサンデーモーニング」
真っ白なボトルを開封し、リードステイックを立てると、心地よい香りがふわりと漂う。シャボンのような爽やかさと、ムスクのような色気を感じる香りだと、優佳は思った。
マルジェラの「レプリカ」シリーズは、大切な思い出を呼び起こす象徴的な香りのコレクションで、レイジーサンデーモーニングの他にもいくつか香りがあると正義から聞いた。
これは部屋用のディフューザーだが、フレグランスもあるそうだ。
昨夜開封したディフューザーは、一夜明けるとリードスティックがフレグランスを吸い上げ、さらに具体的に香りをイメージさせた。
それは、レイジーサンデーモーニングという名前のとおり、洗い立てのシーツに包まれて目覚める日曜日の朝の匂い。つまり、今日みたいな、何か特別なことがあるわけではないけど、忘れたくない普通の日を彷彿させた。
そんな日常を香りで記憶するなんて、ちょっと素敵だと優佳は思う。
しかし、そんなロマンティックなことを考えていたのは、優佳だけだったのかもしれない。
正義は、優佳の幸せ絶頂を、いとも簡単にどん底まで突き落としたのだ。
翌週の水曜日、優佳は有休を取り、自宅にいた。なんとなく体がだるく、頭が重い。
長時間の通勤に耐える自信がなく、休みをとった。といっても、平日に家にいると、普段目につかないことが気になり始めたりする。
正義は全てがきちっとしていた。シンプルでミニマムなものを愛し、家も自分でできること、例えばベッドメイクやフローリングの掃除は、彼の担当だった。決まったところに、決まったものをしまって、潔癖まではいかなくとも、整った生活を好んだ。
だから、いつもは掃除しない場所、例えば、バルコニーを掃除してみたり、車の車内の掃除くらいしておこうと優佳は思いついた。
早速、ガレージにダイソンを持って下り、シートや足元を掃除する。正義が大切に乗っているフォルクスワーゲンは、車体に傷一つなく、内装だってたいして汚れてはいなかった。
優佳はなんとなく、グローブボックスを開けた。なんの意図もなく、そこに扉があったからだ。
「なんだろ?これ?」
車検証などが入ったファイルの上に、置かれたジップロックを手に取った。中には十数枚のレシートが入っている。財布がパツパツに膨らむのを嫌う正義は、レシートや領収証を別の場所にまとめているのは知っていた。
きっと、別にして忘れたのだろうと、優佳はジップを開封してみる。
なんの不安も警戒心もない時に限って、嫌な勘は働くものだ。優佳が見つけたのは、横浜や川崎エリアの駐車場やレストラン、映画館のものだった。
どれも2人分の支払い明細だ。
「まさか、浮気ってことはないよね…」
住み慣れた港区を離れ、引っ越して早々浮気なんてありえない、と思った。でも、事実が気になって仕方がない。
優佳は彼を問いただしてみることにした。すると…。
ミニマムな男は、思考回路もミニマムなのか?彼は、あっさりと浮気を認めたのだった。
「結構簡単に見つかっちゃったね」
まるで、点の悪い答案用紙が見つかった子どもみたいな態度の正義に、優佳はますます腹が立つ。
「すいません!!!」と平謝りするわけでもなく、黙りこむわけでもない。
優佳は床の一点を見つめ、静かに言い放った。
「出てって。顔も見たくない」
そして、優佳は玄関を指差した。
正義は言い訳する様子もなく、すんなりとリビングを出て行った。バタンとリビングのドアを閉めた時、あの香りがふわっと香った。
大きな窓から見える海、差し込む日差し、ベランダに干したリネン、優佳の幸せの象徴をまとめて香りに喩えたような香りが、場違いのように残った。
大切な思い出と香りを結びつけるための香りのはずだったのに。
「すべてがレプリカだったとは思いたくないけれど…」
優佳は、気持ちを落ち着けるように、お腹をさする。
ちょうど、妊娠2ヶ月だと発覚したのが昨日。正義に報告しようと思っていた矢先の出来事だった。
◆
あの出来事から1年半が経った。
無事出産を終え、10ヶ月の育休を経て、今日から優佳は職場復帰だ。
生まれた子どもは正義にそっくりの女の子。住まいは、湘南から引っ越し今は目黒に住んでいる。引っ越しのタイミングで2人は入籍した。
「沙耶ちゃん、もう赤ちゃんじゃなくなってきちゃったね」
優佳が抱き上げ、沙耶の頭皮の匂いをかいだ。
「もう匂いが違うよな。あの乳臭い匂いが懐かしいなあ」
そう言いながら、今度は正義が沙耶を抱き上げる。
正義もいまではすっかりパパの顔だ。
あの時、妊娠していなければ、どうなっていただろう。正義に一途に片想いしていた自分、そして束の間の住まいだった湘南の家、さまざまな記憶が、浮気という事実のもとでは、なんの意味も持たないと優佳は思う。
浮気が発覚した翌日、正義は優佳に謝るために自宅に戻ってきた。
最初正義は「魔が差した」と言い訳を並べていたのだが、優佳が妊娠の事実を告げると、必死の平謝りに変わった。
「やり直そう、もう一回チャンスをください」
「簡単にやり直そうなんて言わないで。自分の子どもが同じことされたら、あなたどう思う?」
優佳の問いに正義は項垂れ、心からの後悔を口にした。その様子を見ても、優佳にとって浮気は、到底許すことなどできない行為だった。
だが、妊娠中の体は日に日に変化していき、正義との関係をどうするか立ち止まる猶予すら与えない。
だから、優佳は、都内に引っ越すことを条件に水に流すことにしたのだ。湘南の明るい日差しや波の音、日曜日の朝の匂い…丸ごと封印し、また新たに幸せを探ろうと思った。
目黒では、湘南の家みたいに、広々とした空間は得られない。
リビングは沙耶のバウンサーやおもちゃでさらに狭くなったし、かつて正義がこだわっていたミニマムでおしゃれな空間とはほど遠い。
「じゃ、保育園の送り、お願いね」
優佳は、沙耶を正義に託し、一足早く家を出た。
しばらく歩いて目黒駅に着いた。
朝8時。久しぶりの通勤電車だ。
ホームに列車が滑り込み、車内から人が溢れ出てきた時、優佳の鼻腔を懐かしい香りがかすめた。
― レプリカだ。
誰かのつけているフレグランスなのだろう。しかし、それは瞬時に、かつての記憶と結びついた。海の見えるリビングで過ごす美しい日曜日。
― そんな時期もあったよね。
優佳は1人、クスッと笑い、電車に乗り込んだ。
▶前回:「あの時、なぜ手放した…?」恋愛迷子の34歳女が気がついた、20代で失った恋の痛すぎる代償
▶1話目はこちら:好きだった彼から、自分と同じ香水の匂いが…。そこに隠された切なすぎる真実