存在の耐えられない「透明さ」

受刑者として与えられる最低限の保護によって、社会や経済や交友つまり「人間の営み」との一体感が与えられたのである。彼は無期懲役囚となってようやく「透明人間でなくなった」と感じられたのだ。

小島受刑者はいま刑務所で「寝たきり」の暮らしを送っているというが、もし彼のような若者がシャバで素寒貧になって寝たきりになれば、それを顧みる人はだれもいない。しかし刑務所で「寝たきり」になれば、それを心配してくれる人がたくさんいる。

もちろん心配しているといってもそれは純粋な気遣いというより、刑務所で頓死されたら刑罰の執行機関としての妥当性にかかわるからなのだが、しかしその程度の薄っぺらい心配でも彼にとっては本当に心地よいものなのだろう。

事件当初のネット上では、小島受刑者によって命を奪われた男性がいわゆる「エリートサラリーマン」であったことも大きな注目を集めていた。被害者となった30代男性は、東京大学を卒業後に研究者となりその後外資系メーカーへと進んだ。能力だけでなくその人格も慕われており、犠牲になった彼のことをたくさんの人が惜しんだ。

「あの事件の被害者は、仕事とか人間関係とか温かい家庭とか仲間とか、加害者が欲しかったものを全部持っていた人だったんだろうな。」

事件発生当時のニュースについて、ネット上に書き込まれた名もなきコメントがいまも頭の片隅に残っている。たしかにそうなのかもしれない。かれらは通常ならきっと、お互いの人生で絶対に交わることがなかったはずだ。同じ「社会」に属しながらそれぞれまったく別の景色を見ていたふたりが、加害者と被害者という不幸な形で交錯したのだ。

実社会より刑務所のほうが「やさしい」と感じる人にとって、刑罰は実質的な意味を持たない。

だからといって刑罰をもっと厳しく、受験環境を劣悪にして幸福や安寧を感じられないくらいにしてやれと言いたいのではない。そうではなくて、実社会を生きるだけで「罰」になってしまうような状況を変えなければならないだろう。

だが現代社会は高度にコミュニケーション主義化し、高いメタ認知能力や感情抑制能力が「ちゃんとした人間」としての要件としてますます求められるようになっている。言い換えれば、「社会の正規メンバー」として迎えられるための難度が上昇している。

透明人間にならないために越えなければならないハードルがさらに高くなっている。私たちもいつか、「こちら側」から落ちてしまうのかもしれない。

他人を殺して無期懲役を“獲得”してでも社会とつながりを得ようとするのはさすがに極端な事例ではあるが、いまの自分の「透明度」に耐えがたいほどの苦痛を感じて、それをどうにかしようともがいている人は大勢いる。

それは小島一朗という男だけの問題ではない。

<脚注>

*1
https://www.bengo4.com/c_1009/n_17904/

御田寺 圭

文筆家