読者の皆さんのなかには、子どものころ、テレビの時代劇を親と見ていたという人がたくさんいるかもしれない。
悪代官やその代官を結託している商人たちを正義のヒーローが成敗してくれる――。
時に将軍だったり、時に素性を隠した浪人だったり、悪人たちを豪快にやっつけてくれる姿は、見ている私たちをすっきりさせてくれる。その代表格の一人が『遠山の金さん』ではないだろうか。腕にある桜吹雪の入れ墨を悪人に見せつける姿はまさに圧巻。
しかし、その刺青が華麗な桜吹雪じゃなかったとしたら……。
高校教師歴27年、テレビなどにも多数出演している歴史研究家で多摩大学客員教授などを務める河合敦先生によると、「江戸時代のイメージは、明治政府や御用学者、マスコミによって、ねじ曲げられてきた」という。
そこで河合先生に、これまで常識とされてきた江戸時代のイメージがくつがえるような、知られざる事件や新しい史実を教えてもらった。
(この記事は、『禁断の江戸史~教科書に載らない江戸の事件簿~』より一部を抜粋し、再編集しています)
◆悪人たちを豪快に成敗する「遠山の金さん」こと遠山金四郎景元
「遠山の金さん」の正確な名前は、北町奉行の遠山金四郎景元(かげもと)。皆さんご存じの通り、テレビの時代劇での金さんの活躍ぶりは次の通りである。
――町奉行の金さんは遊び人として江戸市中で潜入捜査をおこない、犯罪事件の真相を事前に把握しておく。やがて捕縛された悪党どもがお白洲(しらす)の場に引き出されてくると、町奉行として正装した金さんが、彼らに次々と疑問点を糺(ただ)していく。
対して悪党たちは、時には知らぬ存ぜぬといい張り、あるいは平然とウソをつき通そうとする。
すると金さんは突然話題を変え、「そういえばおぬしたち、遊び人の金さんとやらを存じておるか」と切り出し、「はて、いったい何の事やら」ととぼける彼らを前に、「おいおいまさか、おいらの顔を忘れちまったとでもいうのかい」といきなりべんらんめえ調で語り出す。
意表を突かれた悪党たちは、目の前のお奉行の顔をまじまじと凝視する。中にはこの時点で、遊び人の金さんと町奉行が同一人物だと気がつき「はっ」と顔色を変える者もいる。ただ、それでもシラをきり通そうとする。
その態度に業(ごう)を煮やした金さんは、にわかに立ち上がり、ススッとお白洲に並ぶ悪党たちのもとへと近づき、大階段を数歩くだるや、いきなり片肌を脱いで肩の桜吹雪の彫り物を見せ、「やい、やい、てめえら、まさかこの桜吹雪を忘れたとはいわせねえぜ!」と大見得を切る。
この瞬間、悪党たちは仰天し、とうとう罪状を認めて一件落着となる。
◆衝撃! いまの高校生は「遠山の金さん」を、ほとんど知らない!?
そんな誰もが有名な時代劇の「遠山の金さん」だが、十年前まで高校の教師をしていた河合先生は、授業中に衝撃を受けたことがあったという。
「生徒たちに江戸幕府の職制を話すときに、町奉行の項目で遠山の金さんの話をしたんです。ところが、彼らはほとんど反応しなくて……。
いまの高校生たちは、この名奉行を知らなかったのです。私にとって生徒との年齢差を実感させる出来事でした(苦笑)」(以下、すべて河合先生)
そんなジェネレーションギャップを感じたという河合先生。
◆「遠山の金さん」のストーリーは間違いだらけ!?
先生に「遠山の金さん」のストーリーについて聞くと、ほとんどがウソだらけなのだとか。
「町奉行が直接容疑者に尋問するのは禁じられているし、裁判中、町奉行は動かずに行儀を正していなければいけません。ましてや立ち上がって彫り物を見せるなどもってのほか。そもそも、縁側からお白洲へ降りる階段など存在しません。
しかもドラマの金さんは、彫り物を見せて相手を観念させたあと『市中引き回しのうえ獄門』などと、判決を犯人に申し渡していますが、これも間違いです。
死罪などの重刑は、あらかじめ将軍や幕府の老中の許可が必要。しかも申し渡しは奉行所ではなく、牢屋敷においておこなわれるものなのです」
◆金さんが遊び人に扮して市井を徘徊していた……のはウソだった!
さらに、実際の町奉行の遠山金四郎が遊び人だったというのもウソであると、河合先生は指摘する。
「悪い仲間と付きあい、博打を打ったり、森田座(芝居小屋)で囃子(はやし)方の笛を吹いていたという逸話もありますが、あくまでそれは若い時分の話です。
金四郎が初めて北町奉行に就任したのは48歳のときで、当時としては老年といってもよい年齢。
それに町奉行は、現在でいえば東京都知事、地方裁判所の長官、警視総監、閣僚を兼ねる地位で、在職中の死亡率が高い激務です。ちょいワルオヤジのように、悪所に出入りして遊んでいる暇などないですよ」
◆金さんの入れ墨は、桜吹雪ではなかった!
ここまで、時代劇での“金さん”の内容にこんなにウソが多いとなると、気になってくるのは、本当に遠山金四郎が桜吹雪の彫り物をしていたか?ということである。
じつは金四郎と同時代の、作者不詳の『浮世の有様』には「金四郎は賭場(とば)に出入りするなど放蕩(ほうとう)生活を送り、たびたび悪事も働いていたが、やがて家督を継ぐことになった。だが、総身に彫り物をしているので醜い」とある。
つまり、全身に彫り物をしていたというのだ。
「数年間、金四郎の部下であった佐久間長敬(おさひろ)も『江戸町奉行事蹟問答』(南和夫校註 人物往来社)の中で、体に彫り物をしていたという証言を残しているんです。となると、どうも彫り物があった可能性は高いようなんですが、具体的な紋様は語られていませんでした。
それが明記されるようになるのは、明治時代の記録からです。
木村芥舟(きむらかいしゅう)は『左腕に花の紋様を描いた入墨があった』と回想していますし、中根香亭(なかねこうてい)が著した『帰雲子伝』(金四郎の略伝)には、金四郎があるとき歌舞伎の脚本家・二世並木五瓶(なみきごへい)と喧嘩になったが、興奮のあまり相手に殴りかかろうと腕をまくり上げた瞬間、肩から腕にかけての彫り物が顔を出した。
なんとそれは、女の生首が髪を振り乱して巻物を咥(くわ)えた絵柄のまことにグロテスクなものだった、とあります。遠山の金さんの彫り物が桜吹雪ではなく、女の生首だというのは、イメージが狂ってしまいますね」
◆市川左団次が演じた金さんの彫り物も女の生首だった
この『帰雲子伝』は明治中頃に出版されたが、それと同じ頃に、『遠山桜天保日記』という歌舞伎の脚本が竹柴其水(たけしばきすい)によってつくられ、明治座で市川左団次が金四郎を演じられていた。
このときの金さんの彫り物は、やはり女の生首だったという。ただ、これではちょっと格好がつかないと思ったのだろうか、ほぼ同時期に桜吹雪説も登場し、そちらのほうが金さんのトレードマークとして定着していったようである。
◆金さんは、殺人などの犯罪行為を裁いていなかった!?
以後、名奉行として歌舞伎や芝居で好んで演じられ、やがて映画やテレビドラマの題材にもなっていった北町奉行・遠山金四郎だが、実際に名奉行だったのだろうか?
「お裁きは巧みだったようです。将軍・家慶(いえよし)は、彼の裁判を見聞きし、その見事な訴訟の扱いぶりに感歎し、金四郎のことを褒めたたえています。ただ、もともと金四郎は家慶の側に仕えていたという経緯があり、お気に入りだったこともその評価と関係しているのかもしれませんね」
ちなみに、金四郎が町奉行在職中に殺人などの犯罪行為について、彼自身が主導して名裁きを演じたという記録は残っていない。
◆なぜ金四郎は庶民の味方に?
それでは、なぜ金四郎は名奉行、庶民の味方となったのだろうか?
「それは、天保の改革と深い関係があります。金四郎が奉行になってまもなく、幕府で権力を握った老中・水野忠邦が天保の改革を開始。
この改革は、庶民にとって憎むべきものでした。庶民に厳しい倹約令や贅沢(ぜいたく)禁止令を出し、江戸の市中にスパイを放って奢侈(しゃし)品を身につけているものを片っ端からしょっ引き、取り締まったからです。
流行作家や歌舞伎役者を弾圧するなど、庶民の英雄や娯楽も奪っていったのです。そんな水野の片棒を担いで、実際に江戸の町で厳しい風俗の取り締まりをおこなったのが、じつは遠山金四郎だったのです」
◆金さんが現代でも人気ヒーローであり続けるワケ
それにもかかわらず、金四郎の人気が高まったのにはワケがあるのだと河合先生は言う。
「同僚の南町奉行・鳥居耀蔵(とりいようぞう)がさらに輪をかけて水野に忠実であり、庶民を苦しめていると評判が悪かったからなんです。
それに対して金四郎は、庶民にはかなり同情的でした。たとえば、水野が寄席を全廃しようとしたとき、金四郎はそれを諫めていたのです」
さらに歌舞伎の芝居小屋の一件もある。天保12年(1841)に堺町の中村座から火が出て、三座(代表的な三つの歌舞伎の劇場)がみな焼失してしまう。
すると水野は、歌舞伎は庶民の風俗を乱すので、この際、取りつぶすべきだと主張したのである。
◆芝居小屋廃止に反対した金さん
「その意を受けた鳥居が芝居小屋廃止に動くと、遠山金四郎は『何も庶民のささやかな楽しみまで奪う必要はないでしょう』と強く反対したのです。
将軍・家慶の意向もあり、芝居小屋は江戸の場末である浅草へ移転することで落着しました。もしかしたら、金四郎が将軍に密かに働きかけたのかもしれませんね」
いずれにせよ、目障りに思った水野によって金四郎は大目付に転出させられる。実際は出世であったが、敬して遠ざけられたらしい。
ただ、天保の改革は水野失脚により2年間で終わりを告げ、金四郎は再び町奉行に返り咲いたのだ。
◆南北両奉行所の奉行になったのは金四郎が初
「ただし、今度は北町奉行所ではなく南町奉行所の町奉行であり、じつは、こちらのほうが在職期間は長かったんです。
しかも両奉行所の奉行になったのは、金四郎が初めてのことでした。彼が町奉行としていかに能力が高かったかがわかります。金四郎は60歳のときに南町奉行を引退し、それから3年後の安政2年(1855)に死去しました」
金四郎が遠山の金さんという名奉行として歌舞伎の演目になるのは、『遠山桜天保日記』など明治20年代になってからのこと。
◆人気が続いている最大の理由は「芝居関係者の感謝の気持ち」
これに関しては、金四郎が町奉行時代、親しく江戸の町を巡察したり、町人たちをお白洲に呼んで訓戒を述べたりしたこと。相役の鳥居耀蔵が庶民を苦しめたこと。
明治中期に、南町奉行を務めた大岡越前守忠相(ただすけ)の『大岡政談』が人気になったことなどが関係しているようだ。
「ただ人気が続いている最大の理由は、歌舞伎役者や興行主など芝居関係者が、歌舞伎の存続に尽力してくれた金四郎のはからいに感謝したことも考えられます。それによって、彼を名奉行に仕立て上げ、盛んに上演することで、その恩に報いたためだと考えられています」
<文/河合敦>
―[禁断の江戸史]―
【河合 敦】
歴史作家、多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。
1965 年、東京都生まれ。青山学院大学文学部史学科卒業。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も精力的にこなす。『教科書に載せたい日本史、載らない日本史』『日本史の裏側』『殿様は「明治」をどう生きたのか』シリーズ(小社刊)、『歴史の真相が見えてくる 旅する日本史』(青春新書)、『絵と写真でわかる へぇ~ ! びっくり! 日本史探検』(祥伝社黄金文庫)など著書多数。初の小説『窮鼠の一矢』(新泉社)を2017 年に上梓。