江戸時代の遊女にまつわる“間違ったイメージ”とは? 悲劇だけではなかった/『禁断の江戸史』より

 時代劇などで登場する吉原などの遊女。たいてい貧しい家に生まれ泣く泣く遊女に、または、騙されて遊女に身を落とすなど、悲劇の女性として描かれることが多い。

 また、遊女というだけでいわれもない差別を受け、年季が明けるまで厳しい生活を強いられていると思われがちだ。

 しかし、それがすべてでないとしたら……。

 高校教師歴27年、テレビなどにも多数出演している歴史研究家で多摩大学客員教授などを務める河合敦先生によると、「江戸時代のイメージは、明治政府や御用学者、マスコミによって、ねじ曲げられてきた」という。

 そこで河合先生に、これまで常識とされてきた江戸時代のイメージをくつがえすような、知られざる事件や新しい史実を教えてもらった。

(この記事は、『禁断の江戸史~教科書に載らない江戸の事件簿~』より一部を抜粋し、再編集しています)

◆日本は遊女の数が多く、長崎には外国人専門の遊女屋があった

 日本にはとにかく遊女の数が多く、江戸時代も幕府が公認した遊郭のほか、多くの町にも岡場所(私娼が集まった非公認の風俗街)があった。

 各宿場町でも、いまの旅館にあたる旅籠(はたご)では飯炊女(めしたきおんな)という名称で、人数を限って女性を置き、彼女たちの売春行為を認めていた。

 驚くのは、長崎には外国人専門の遊女屋があったことである。オランダ商館の医者として長崎の出島にやってきたC・P・ツュンベリーもお世話になっていたという。

 彼は遊女との「付き合いを望むものは、毎日遊女の予約をとりに出島にくる男に、その旨を告げる」と書いており、毎日、長崎の出島まで遊女屋の店員が予約を取りにきていたことがわかる。

◆遊女に惚れて、正式な妻として母国へ連れ帰ったオランダ人もいた


 河合先生は次のように解説する。

「オランダ人は原則出島から出ることができません。

 ツュンベリーの記録によると、予約が入ると『この男は、禿(カブロ)と呼ばれる若い女中を伴った遊女を夕暮れ前に連れてくる。禿は、遊女がいいつける飲食物を毎日、町から調達し、また料理をあたため、茶などを沸かし、まわりをきれいにし、そして使い走りをする』とあります。

 ちなみに、丸山遊郭の遊女に惚(ほ)れ、帰国のさい彼女を密(ひそ)かにオランダに連れていき、正式な妻にしたオランダ人もいたようです。

 また、オランダ商館長(カピタン)のブロムホフは、惚れた遊女の糸萩になんとラクダのつがいをプレゼントしています。

 ただ、もらった糸萩は飼うことができなくて、ラクダを持てあましたすえに、見世物の商売人に売ってしまいました。糸萩は早世しましたが、ブロムホフの子を産んでいます」(以下、すべて河合先生)

◆江戸時代には年季明けや身請けされた遊女が差別されていなかった


 ちなみに、ツュンベリーの記録に登場する禿というのは、10歳以下の少女のこと。少女たちはたいていが親に売られて遊郭にやってくる。はじめは見習いとして遊女たちに付き添い、さまざまな雑用を担い、やがて少女自身も遊女になっていった。

「幕府は、業者による人身売買を基本的に禁じていましたが、親が娘を売る行為は認めていました。それは外国人にとっては驚くべきことだったようです。ツュンベリーも『両親が貧しくて何人もいる娘を養えない場合に、娘が4歳を過ぎるとこの種の家の主人に売る』と述べています。

 その一方でツュンベリーは、『幼女期にこのような家に売られ、そこで一定の年月を勤めたあと完全な自由を取り戻した婦人が、はずかしめられるような目で見られることなく、のちにごく普通の結婚をすること』を、奇異に感じていました。

 年季明けや身請けされた遊女が差別されていないことを、西洋の売春婦と比較して驚いていたようです。いまの日本では、風俗産業で働く人びとは差別を受けています。だからこそ、その事実を隠そうするわけですが、江戸時代はそんなことはなかったんです」

◆日本にいた外国人は、きちんと日本の遊女文化を理解していた

 幕末に来日したイギリス公使・オールコックも、日本人は「親子の愛情が欠けていることはないようである。子供を愛する器官(もしそんな器官があるとすれば)はまったく大いに発達しているように思える」(山口光朔訳『大君の都 幕末日本滞在記 下』岩波文庫)と述べている。

「それなのに『父親が娘を売春させるために売ったり、賃貸ししたりして、しかも法律によって罪を課されないばかりか、法律の認可と仲介をえているし、そしてなんら隣人の非難もこうむらない』ことに、オールコック大いに驚いていたようです」

◆日本の遊女は軽蔑すべき仕事ではない


 また、幕末に来日したフランスの海軍士官・スエンソンは、次のように述べている。

「日本のゲーコは、ほかの国の娼婦とはちがい、自分が堕落しているという意識を持っていないのが長所である。

 日本人の概念からいえば、ゲーコの仕事はほかの人間と同じくパンを得るための一手段にすぎず、〔西洋の〕一部の著作家が主張するように、尊敬されるべき仕事ではないにしろ、日本人の道徳、いや不道徳観念からいって、少なくとも軽蔑すべき仕事ではない。

 子供を養えない貧しい家庭は、金銭を受け取るのと引きかえに子供たちを茶屋の主人に預けても別に恥じ入ったりするようなことはないし、家にいるより子供たちがいいものを食べられ、いいものを着られると確信している」

「ゲーコの多くは、前もって定められた年数を茶屋で過ごしさえすれば契約が切れ、誰にも妨げられずに家にもどることができて、まともな結婚さえ可能である」(長島要一訳『江戸幕末滞在記』講談社学術文庫)

 河合先生が最後に次のように語る。

「これらの文献からも、江戸時代の遊女は差別されることもなく、完全な自由を取り戻したら、普通の結婚をすることがわかります。しかし、このように、きちんと日本の遊女文化を理解していた外国人がいたのはまことに興味深いことでですね」

<文/河合敦>

―[禁断の江戸史]―

【河合 敦】

歴史作家、多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。
1965 年、東京都生まれ。青山学院大学文学部史学科卒業。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も精力的にこなす。『教科書に載せたい日本史、載らない日本史』『日本史の裏側』『殿様は「明治」をどう生きたのか』シリーズ(小社刊)、『歴史の真相が見えてくる 旅する日本史』(青春新書)、『絵と写真でわかる へぇ~ ! びっくり! 日本史探検』(祥伝社黄金文庫)など著書多数。初の小説『窮鼠の一矢』(新泉社)を2017 年に上梓。