初冬の風物詩といえば酉の市。今年は三の酉まであり、多くの神社がにぎわっている。
このように昔から続いている行事に参加すると、日本の伝統に触れている感じがする。
秋まつりや夏の盆踊りの同様である。盆踊りの代表格といえば、徳島県の阿波おどりだろう。起源は400年以上にもさかのぼるという阿波おどりは、開催時には全国から踊りにくる一大イベント。
大勢で踊る様子は圧倒的なパワーを感じるが、江戸時代には踊りすぎて処罰された武士がいたという。一体どういうことなのか?
高校教師歴27年、テレビなどにも多数出演している歴史研究家で多摩大学客員教授などを務める河合敦先生によると、「江戸時代のイメージは、明治政府や御用学者、マスコミによって、ねじ曲げられてきた」という。
そこで河合先生に、これまで常識とされてきた江戸時代のイメージがくつがえるような、知られざる事件や新しい史実を教えてもらった。
(この記事は、『禁断の江戸史~教科書に載らない江戸の事件簿~』より一部を抜粋し、再編集しています)
◆阿波おどりの起源は400年以上前!
「えらいやっちゃ、えらいやっちゃ、ヨイヨイヨイヨイ」「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損々♪~」
これは、誰もが知っている阿波おどりのフレーズだ。
毎年8月12日からの4日間、徳島市内では、三味線や笛の音が響きわたり、激しい動きの踊りが繰り広げられ、街全体が熱狂の渦に包まれる。
この期間には、全国から百数十万人の踊り手や観光客が徳島市内に殺到する。
徳島市の人口約25万人をはるかに上回る数だ。2020年からのコロナ禍では、中止や規模縮小もあったが、阿波おどりの起源はいまから400年以上前にさかのぼるのだという。
◆徳島城の完成を祝って人々が乱舞したことが起源といわれているが……
「江戸時代、阿波徳島藩(25万7900石)が徳島市域を支配していました。
藩主の蜂須賀(はちすか)氏は小六正勝(ころくまさかつ)が秀吉のもとで栄達して大名となり、その子・家政が阿波一国を拝領して徳島城をつくりました。
城が完成したとき、家政は領民に無礼講を許し、人びとは7月15日と16日の2日間、乱舞しました。
以後、徳島城下ではこの両日のみ踊りが許され、阿波おどりの伝統が生まれたと伝えられています」(以下、すべて河合先生)
◆阿波おどりの「もう一つの起源」
ただ、この説は明治41年(1908)の『阿波名勝案内』(石毛賢之助編)に初めて登場したもので、史実だとするのは難しいという。
江戸時代の比較的早い段階で成立した『三好記』には、この地域の領主だった十河存保(そごうまさやす)(三好長慶(ながよし)の甥)が、天正6年(1578)に勝瑞(しょうずい)城下において、庶民の風流(ふりゅう)踊りを見物したという記録があり、その風流踊りこそが、阿波おどりの起源であるという説もあるそうだ。
風流踊りというのは、七月の盂蘭盆(うらぼん)に際して町や村が一つの構成単位となり、仮装して行列で練り歩く祭りのことである。
◆徳島藩は武士の阿波おどり参加を禁止に!
いずれにせよ、起源ははっきりしないものの、阿波おどりの起源となる踊りは、四代将軍・徳川家綱時代の明暦2年(1656)には確実に存在した。
というのは、「盆の三日間だけ踊りを許可するが、寺院の境内に入り込んで踊ってはならない。また、藩士は野外に出ず、屋敷の中で踊るように」という徳島藩の通達が出ているからだ。
「町人との揉(も)め事を嫌ったのか、徳島藩は家中の武士たちが市中に出て踊ることを厳しく禁じています。
興味深いのは、それでも藩士たちは踊りのイベントに加わりたかったようで、屋敷の敷地に町人たちを招き入れて踊りを見物したり、自分の代わりに町で踊る者を雇ったりしていました。中にはこらえきれず、覆面や頭巾などで顔を隠して市中へ忍び込んで踊る者もあったといいます」
◆阿波おどりを踊ったことが原因で、武士が改易される
天保12年(1841)には、とうとう阿波おどりのために改易される武士が出る。
「驚くべきは、処罰されたのが十代藩主・蜂須賀重喜(しげよし)の実子だったこと。当時、中老をしていた蜂須賀一角(いちがく)(石高千石)でした。
一角は、『市中の踊り舞台に出向いてはいけない』という禁令を無視し、祭の本番中にがまんできずに屋敷から抜け出し、取り締まりの番士に見つかってしまいます。
一角はすぐに自宅に連れ戻され、謹慎処分として座敷牢に入れられました。なのに翌年7月、またも牢から抜け出して外で発見されたのでした。
ただし、一角がいたのは、領内ではなく、讃岐国白鳥(しろとり)でした。有名な白鳥神社があり、時期が7月であることから夏祭りに参加していたのではないでしょうか。
徳島と白鳥の距離は35キロほどですが、江戸人の健脚なら一日で到着し、次の日には戻ってこられます。ですが、不運なことに一角は徳島藩の商人に見つかって飛脚で通報され、再び屋敷の牢にぶち込まれてしまったのです」
◆徳島藩は領民にも阿波おどりを制限した
9月に参勤交代から戻ってきた十二代藩主・斉昌(なりまさ)はこれを知って激怒、なんと一角を追放処分とし、家は改易とした。
しかし11月になって中老・蜂須賀家には養子を迎えて家を再興、一角は引き戻され再び座敷牢に入ったのである。その後、一角がどうなったかはわからない。いずれにせよ、ずいぶんと厳しい処置だった。
「徳島藩は、家中に対して厳しかっただけではなく、じつは領民にもかなりうるさく阿波おどりを制限してきました。
江戸時代半ばまでは、阿波おどりはいまと違って、『組踊り』という形態が主になっていました。
町ごとに総勢百人を超える踊り手と囃子(はやし)方を組として組織し、三味線を先頭に巨大なあんどんをかかげて壮麗な踊りを繰り広げていくのです。他町に対してどれだけ派手で奇抜な踊りを見せるかで、互いの町組は激しく競いあったのです」
◆阿波おどりが、全面禁止になりそうに……
徳島藩としては、徒党を組んで町人たちが競演するのを嫌い、江戸中期以降、何度も組踊りを禁止。
このため、江戸後期になると「ぞめき踊り」が主流になってくる。「ぞめき」に漢字をあてると「騒」となる。
字面(じづら)のとおり、三味線を筆頭に笛や太鼓を騒がしく奏(かな)でながら、個々に踊る形態に切り替えたのである。そして皮肉なことに、これが阿波おどりを飛躍的に発展させる結果になった。
型の決まった集団戦ではなく、騒がしくも単純なリズムにあわせ、個人が手をあげて横に激しく振り、足で地を蹴って進めばよい。
つまり、個人が踊りの列に容易に飛び入り参加できるようになったのである。ただ、組踊りのほうも消滅したわけではなく、明治期から「組」は「連(れん)」と呼ばれ、阿波おどりを主導する存在となる。
◆実際に禁止になったのはたった一度だけ
「阿波おどりを制限した徳島藩ですが、全面的に禁止することはありませんでした。
しかし、廃藩の一年前、たったの一度だけ踊りを取りやめさせたことがあります。明治3年(1870)の稲田騒動のときでした。
十二代藩主・斉昌に後継者がいなかったので、将軍・家斉の第二十二男を養子とし、十三代藩主としました。それが蜂須賀斉裕(なりひろ)でした。
このため、外様ながら幕末の徳島藩は親幕的であり、斉裕は幕府の陸軍総裁になっています。さらに多数の藩士を京都へ派遣して幕府の一橋慶喜に協力して公武合体政策をすすめました」
◆徳島藩の知藩事として藩政改革をすすめた蜂須賀茂韶
ところが、徳島藩の家老の稲田邦植(くにたね)(洲本城代・約一万四千石)は、尊攘派として急進的な行動をとっていた。
そのため、徳島藩は幕末に統一的な行動がとれなかった。そのうえ藩主・斉裕は、鳥羽・伏見の戦いの直後に48歳の若さで病死してしまう。
新藩主には斉裕の次男の茂韶(もちあき)がついたが、すでに数年前から彼は京都で政局に積極的にかかわり、朝廷に生まれた新政府内では公儀政体派の松平春嶽(しゅんがく)らと協力して、新政府軍の徳川討伐を止めようと動いた。
けれど、その建言は受け入れられず、東征軍は江戸へ向かって出立してしまう。
このため茂韶も観念し、「我が藩も東征の列に加えてほしい」と願い出る。
慶応4年(1868)3月、茂韶は新政府の議定(ぎじょう)に任じられ、刑法事務局輔を兼ね、翌明治2年に版籍奉還が実施されると、徳島藩の知藩事となり、国元へ戻って藩政改革をすすめた。
◆本藩の家臣が士族になり、稲田氏の家臣たちは格下の地位に
「そんな徳島藩に翌明治3年、激震が走ります。本藩徳島の家臣が士族となったのに、家老の稲田氏の家臣たちは陪臣(ばいしん)ということもあり、卒族(士族より格下の地位)とされてしまいます。
これに不満に思った稲田氏は『家中の者を士族に取り立ててほしい』と本藩に掛けあいますが聞き入れられない。するとなんと、徳島藩からの独立を新政府に働きかけたのです。
この動きに徳島藩の家臣たち(一部)が激昂、同年5月、稲田氏の屋敷やその拠点である洲本地域を襲撃し、多数の死傷者を出しました」
◆「稲田騒動」の勃発が阿波おどりの全面禁止につながった
「これが『稲田騒動』と呼ばれています。新政府はこれを知り、一時は茂韶の知藩事罷免(ひめん)も検討しましたが、結局、首謀者の徳島藩士・小倉富三郎ら十名を死罪とし、そのほか百人以上を処罰することで決着をつけました。
そして稲田氏に対しては、北海道の静内(しずない)と色丹(しこたん)島(現・北方領土)に新地を与え、彼らを士族に遇して移住させ、同地を開拓させました。
なお、このときの労苦は、吉永小百合主演の映画『北の零年』で知ることができます。こうした大騒動の勃発により、明治3年の阿波おどりは、開催が全面禁止となってしまったのです」
◆阿波おどりという言葉が定着したのは戦後
明治4年、廃藩置県により徳島藩は消滅。だが、以後も阿波おどりは続いていった。ただ、日中戦争が始まると、自粛というかたちで昭和12年(1937)から再び阿波おどりは中止となってしまった。正式に復活したのは昭和21年のことだった。
「まことに意外ですが、『阿波おどり』という言葉が定着したのは、戦後になってからだといわれています」
大正時代から少しは使われはじめていたが、単に「盆踊り」と呼ぶのが一般的で、「阿波おどり」というのは地元でもなじみのない言葉だった。
それを昭和初期に徳島県の郷土史家・林鼓浪(ころう)が「阿波おどり」の用語を推奨。それが戦後に広まり、県外に知られるようになり、観光客が多く訪れるようになったのだ。
阿波おどりも意外な歴史があったようだ。
<文/河合敦>
―[禁断の江戸史]―
【河合 敦】
歴史作家、多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。
1965 年、東京都生まれ。青山学院大学文学部史学科卒業。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も精力的にこなす。『教科書に載せたい日本史、載らない日本史』『日本史の裏側』『殿様は「明治」をどう生きたのか』シリーズ(小社刊)、『歴史の真相が見えてくる 旅する日本史』(青春新書)、『絵と写真でわかる へぇ~ ! びっくり! 日本史探検』(祥伝社黄金文庫)など著書多数。初の小説『窮鼠の一矢』(新泉社)を2017 年に上梓。