レストランに一歩足を踏み入れたとき、多くの人は高揚感を感じることだろう。
なぜならその瞬間、あなただけの大切なストーリーが始まるから。
これは東京のレストランを舞台にした、大人の男女のストーリー。
▶前回:友人の結婚式で同級生に再会。二次会で盛り上がり、そのままふたりで抜け出し六本木で…
「僕が結婚を決めたワケ」拓也(33歳)/ 西麻布『豚組』
「ねえ、拓也。お正月のことなんだけど…」
日曜日の朝、これからジムに出かけようとしていると、沙織に呼び止められた。
「ん?正月?どっか行きたいの?これから予約で間に合うかなぁ」
確か、去年年越しをしたハワイもギリギリに予約したことを思い出した。
あれからあっという間に1年が経った。沙織と僕は、去年の夏の終わりから付き合い始め、年末には一緒に年越し、そして今年の2月ごろから僕が沙織のマンションに転がり込むという形で同棲を始めた。
沙織は僕より8歳年上の41歳。都内を中心に数十店舗の飲食店を経営している。一方、僕はというと、損保に勤める33歳。
僕たちは、沙織の親友が、僕の友達の彼女だったことから、知り合った。
「きっと拓也みたいな人には、ちょっとくらいのことを大目に見てくれる年上の女が似合うんじゃない?」
友達カップルが、やけに熱心に沙織と僕を取り持ったのだ。
友達に勧められたとはいえ、8歳年上なんて信じられなくらい沙織は綺麗だし、裕福な人間らしい気持ちのゆとりが感じられ、とても魅力的だった。
そして、意気投合し付き合い始め、忙しい彼女との時間を少しでも長く取れれば、と一緒に暮らすようになった。
しかし、最近、日々生活していく中で少々困ったことが出てきた。
それは、彼女が猛烈に僕と結婚したがっているということ。
言葉には出さないけれど、一緒に暮らしていると、それを痛いほど感じるのだ。
「お正月ね、今年はハワイじゃなくて…」
沙織は、言いにくそうだが、期待を孕んだ表情をしていた。
「城崎がいいな。城崎温泉、行ってみたい。カニの美味しい宿をとって」
とうとう、来たか。僕の実家は、兵庫県の城崎にある。沙織は、僕の実家に挨拶に伺いたいと前々から言っていた。
「温泉以外、何もないところだから、きっとつまらないよ」
彼女のたっての希望だが、「お!いいね!」と去年のハワイのノリでは答えられない。
城崎で温泉だけ入って帰るわけにはいかないし、実家にも立ち寄ることになるだろう。うちの両親も、年始にいきなりシングルマザーの彼女を連れて帰ってきたら、正月どころじゃなくなるはずだ。
「陽菜に雪を見せてあげたいし、ね?」
今年4歳になった陽菜は、沙織が離婚した元夫との間にもうけた娘だ。
「寒すぎるから、陽菜が風邪ひくと面倒だよ。城崎は春まで待って、正月はあったかいところがいいんじゃない?」
沙織は生まれ育った街を見るという口実で、僕の両親に会いたいようだ。だが、僕があまり乗り気でないのを察すると、彼女は意気消沈した。
「そうね…。別にお正月なんてどこでもいいけど」
そりゃもちろん、一緒に住んでいるくらいだし、彼女のことは好きだ。だが、付き合い始めて1年でこの展開は、早すぎじゃないか!?
いや、本当に好きなら別に時期尚早なんてことはない。僕が彼女のペースに怖気づいているのだ。
正直、僕はこれまで女性に困ったことがない。
よく「モテ男」と友達に言われるし、付き合う女性が途切れたこともない。なんなら、2人同時進行みたいなよろしくない恋愛をしていたこともある。
だが、こんな僕が今では完全に彼女のペースにハマり、「結婚したい圧」に耐えながら毎日生活しているわけだ。
男が結婚に踏み切るタイミングや理由ってなんだろうと改めて考えながら、困った僕は、こっそりとある人にLINEをした。
◆
3日後の正午。僕は表参道にやってきた。
「拓也―!久しぶり。あなたってば、相変わらずカッコいいね。また、女の子泣かしてばっかりいるんでしょう?」
「やめてくださいよ、みんな見てるじゃないですか」
待ち合わせた相手は、以前勤めていた会社の上司でもあり、プライベートでも仲が良く姉のような存在の園子さんだ。
2人で喧騒を抜けて西麻布の方に歩いて向かう。根津美術館からの坂道を下り、西麻布のとんかつ『豚組』に入店した。
「で?どうしたの?私は、拓也が困っているときに呼び出される役回りよね」
実は…と僕は切り出す。
「彼女の結婚したい圧がすごすぎて…。どうしたものかなと」
園子さんは、沙織と付き合い始めた頃、彼女がどんな人か話したことがある。
「彼女って、子持ちで8歳年上の、経営者の?」
「そうっす。あれから、しばらくして大山町の彼女のマンションに僕が転がり込む形で一緒に住み始めたんですけど」
沙織は、夫の浮気が原因で離婚した後、子どもを幸せにしたい一心で事業を拡大していった。
あるとき、仕事ばかりで多忙を極める彼女を心配した友人たちが、グランピングを企画。僕は、そこで子どもを連れてやってきた沙織に出会ったのだ。
元々子ども好きな僕は、子持ちのバツイチという彼女的なハンデは全く気にならず、むしろこんなお金持ってて綺麗な人と付き合ってみたい、くらいの感覚だった。
「子どもとか犬に、僕めっちゃ好かれるんで。彼女の子ども、女の子なんですけど僕に懐いてて、可愛いんです」
園子さんは、僕のことをよくわかっている。「へぇ、そうなんだ」と適当に相づちを打つ。
「で?結婚指輪はどこのを買えばいいとかそういう相談?」
「じゃないですね。園子さんが、旦那さんと結婚した決め手はなんですか?」
園子はゲラゲラと笑う。
「なんだ、そんなこと?とりあえず、とんかつ食べてからね」
目の前に、揚げたてのとんかつ、赤だしに、白米と山盛りのキャベツを見て思わず声が出る。
「うわ、美味そう」
僕は、割り箸を手に取った。
塩をつけて一口食べる。火の入れ方が絶妙だ。良質で甘みのある脂が口の中でゆっくりと溶けていく。
「衣はさっぱりしてるけど、肉質はジューシー。とんかつを盛ってる皿が古伊万里ってところが洒落てますねー。彼女の子どももとんかつが大好きなんすよ」
赤だしを一口啜ってから、白米を頬張ると、なんともいえぬ幸福感に満たされる。
「ぐずぐず悩んでないで、結婚したら?」
「そうなんですけど…。この間、同じ会社の女の子に真剣に告白されたんですよね。
沙織がいるんで、全然揺らがなかったですけど。ただ、この先こういうことがあった時、僕は結婚したことを後悔しないかなって、思ってしまって‥」
園子さんは明らかにあきれた様子だ。
「私が結婚したのはね、なんとなく、食事中にこのまま年取っていくってどうなんだろう、って話になったのがきっかけ。
お互いに結婚は考えてなかったけど、この生活はずっと続いていくのが自然。そう思ったのが結婚の理由」
「生活が続いていく、か。じゃあ、僕もそうなのかなぁ」
今の生活は楽しいし、充実している。しかし、ふとした時に思うのだ。
「子どもが可愛いのも迷う理由です。万が一この先、僕が他の女性に目が行くことがあって、傷つけたらどうしようとか」
「ますますあきれた。拓也って、今までの生活が生活なだけに、浮気前提なのね…」
園子さんがおかしそうに笑う。
「あとは、仮に沙織との間に子どもができて、同じように接することができるかな、とか。子どもに対しての責任です」
「でも、そうは言ってもお付き合いして1年半、彼女とうまくいっている。それに、あなたとても大人になったわ」
「ええ、まぁ33なんで」
「なのに浮気したらどうしようって、自分が信じられないんだね」
はぁ…。その通りだ。僕は自分が沙織たちを傷つけそうで、それが怖くて結婚に踏み切れないだけなのかもしれない。
◆
クリスマスがあと1週間に迫ったある夜。
陽菜を寝かしつけ、寝室からそっと出てきた沙織に僕は言った。
「サンタさんのプレゼント以外に、僕から陽菜にスキーウェアを贈ろうと思うんだ。今週末、外苑前のスキーショップジローに見に行かない?うちの実家の方、スキー場近いしさ」
すると、沙織の瞳からみるみる涙が溢れてきた。
「ありがとう。私、拓也があまり乗り気じゃないの、気づいてたんだ」
「いや、僕の決心がつかなかっただけだから。僕のほうこそ、ごめん」
あれから僕は、すぐ結婚するかはさておき、親には紹介しておこうという気持ちになったのだ。
「うん。私、陽菜がいろんなことわかり始める前に、拓也との関係をはっきりさせておきたくて焦ってたの。陽菜はあなたのことが大好きだから」
これで良かった、と僕は思った。
「ウェア買ったら、美味しいとんかつ屋にも寄ろう。3人で」
あの時、園子さんからこうも言われたのだ。
「拓也、とんかつを塩で食べるようになったの?昔なら必要以上にソースをかけて衣をびちゃびちゃにしてた。
それに皿なんて気にするタイプだった?彼女に影響されたんだね」
影響された?僕が?そう言われて、僕自身驚いていた。
「それに、子どもがとんかつ好きなんすよ、って何?その発言。あなたちゃんと子どもの面倒もみてるんだね」
それを聞いて僕は思った。もう沙織と陽菜は、僕の生活の一部で、きっといなくなったら困る存在なんだなって。
だから、沙織の希望通り、お正月は僕の実家に行こうと思っている。親がびっくりしないように、今夜、2人と一緒に帰省するって電話するつもりだ。
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