夜店のクジ引きには大当たりがない——そのことは誰もがなんとなく知っていたことではないだろうか?
だからこそ、YouTuberのヒカルが、夜店のクジを買い占めて、本当に当たりがあるのかを検証しようとする動画(「当たりはなかった? 祭りくじで悪事を働く一部始終をban覚悟で完全公開します」2017年4月3日)が流れてきたときは衝撃だった。もう7年前の話になるけれど。
クジなんてどうせ当たらない。普段から親にはそう言い聞かされていた。だからぼくは、同年代の子どもたちより醒めているはずだった。それでも夜の町に、ひときわ目立つクジの屋台を見つけると、どうしても覗いてしまう。吸い込まれてしまう。
立ち並ぶ夜店と雑踏の雰囲気で高揚している。白熱灯の光。うずたかく並ぶプラモデルやラジコンやゲーム機の箱。ヤジや怒声も混じる喧噪。クジを引く。当たる「かもしれない」熱のなかで感情を揺さぶられる。
「お! そろそろ当たるんちゃうか!?」——威勢のいいおっちゃんの合いの手にほだされてまた次のクジを引いてしまう。結局は駄菓子やちょっとしたおもちゃを握りしめ、ため息をつきながら帰路につく。それにもかかわらず、翌年見かけるとまた吸い込まれてしまう。
不透明な揺らぎ。この揺らぎに振り回されることにこそクジの本質はある。それが屋台のクジであり、夜店だった(たいして美味しくなかったのに翌年また買ってしまう焼きそばや林檎飴!)。
ヒカルの検証動画は、曖昧なまま夢見ていたぼくたちを、しかし当たらないこともまた同時に知っていたぼくたちを、身も蓋もない「そのままさ」あるいは「あからさまさ」の殺伐へとたたき落とす。
その身振りが透明な真実を暴いている「かもしれない」ようであればあるほど、動画は炎上し、再生数は最大化され、動画の主はかつてなく輝く。新たな揺らぎの屋台として。
edit: Sayuri Otobe
美学者・庭師 山内朋樹
1978年兵庫県生まれ。京都教育大学教員・庭師。専門は美学。在学中に庭師のアルバイトをはじめて研究の傍ら独立。制作物のかたちの論理を物体の配置や作業プロセスの分析から探究している。著書に『庭のかたちが生まれるとき』(フィルムアート社、2023年)、共著に『ライティングの哲学』(星海社、2021年)、訳書にデレク・ジャーマン『デレク・ジャーマンの庭』(創元社、2024年)、ジル・クレマン『動いている庭』(みすず書房、2015年)。