見た目よりも最も大事なのは「味」である
美しいクリエイションのモリヨシダのガトー達。吉田シェフが大事にしているのは見た目よりも「味」だという。お菓子を形から入ると、無理にその形になってしまう。そのための飾りになってしまうことが多い。
食べさせたい味、食べさせたい食感、食べさせたい香り、口の中で感じさせたい味の変化。それらの要素が収斂していくことで出てきたあとに「形」に入るという。
エクレア(カフェ)、パリブレスト、ババトロピック、ベージュ、モンブランは本国でも人気のあるラインナップ。麗しいモンブランの絞りは、口どけと食感を計算され絞られ、ババトロピックじゅわっと広がるそのシロップの舌触りと生地の口の中で弾けるような食感がよく表現されている。
そして最新のインスタグラムの投稿では“フランスにも負けない日本の美味しい食材を用い“という言葉が印象的だった吉田シェフ。北海道の乳製品の美味しさが凄く印象的だったんだとか。
吉田シェフ「放牧の仕方だったり、乳牛の育て方のプロフェッショナルさに感銘を受け、フランスにも負けないお菓子をこの北海道の「乳」を活かしていきたいと思っています。もちろん、国産のフルーツも存分に使い、美味しさの本質をこの日本で、日本の食材を追求していきたいですね。」
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人生の転機となった二人のパティシエ。オークウッド横田シェフと巨匠ピエール・エルメ氏との出会い
さてここで、吉田シェフが順風満帆で日本の、世界のトップステージまで立ち上がってきたようなストーリーをお届けしてきました。本記事の冒頭でも述べた通り、気づくと商業学校に通いパティシエの道へと進んでいた吉田シェフ。実はお菓子作りへのモチベーションが低かったと話します。お菓子作りへの熱いパッションをどのようにして持ち得たのか、お話を伺いました。
吉田シェフが「当時お菓子の知識もなく、モチベーションも低かったです。もちろん仕事だから知らなければいけないことは勉強します。そんな中で、僕のやる気スイッチを押してくれたのは、当時のパークハイアット東京の横田シェフでした。
当時の職場はみんなのモチベーションはコンクールに目線があって、そのためにコンクールでいかに勝つかを知らなければいけないという環境でした。気づいたら僕もコンクールをやらなければいけない流れになっていました。
僕は兄が美大だったこともあり、アートの面白さや造詣の深さは知っていました。だからこそ、洋菓子の世界のコンクールが小さいショーケースの中で、細かい規定があり、そこに疑問を持っていました。それってアートじゃないよね?と。コンクールは技術の大会。なんのためにコンクールをやるのかと周りに聞くと“みんながやるからやる”。わかりやすく結果が出て、先輩の後を辿りやすいものでした。お菓子って何か?と自分自身に問い掛けながらも、掘り下げていくとお菓子の“美味しい”というものの先にある部分が宗教的なこととか、様々なフランスの文化があることに気づきました。
そのタイミングで横田シェフからランチのデザートやガトーを考えるよう課題をいただきました。それがすごく悩んだ。知らないことも多くて、勉強しようと思った。自分が足りていないことが本当に多かった。
昔先輩になんでこういう風に作るんですか?と聞くと“その通りにやればいいんだよ”言われてずっと疑問を感じていた。お菓子作りにおいてロジックや知識が必要で、『知る』ということが本当に大事なことだと。知らないことを知ろうと思うと、また知らないことが2個出てくる。そこから僕のお菓子作りへの情熱は始まりました。
実はフランスでやろうと思ったきっかけになったのが、バンコクのお寿司屋さんに行ったときでした。TVチャンピオンで勝たせてもらったときにタイでデモンストレーションをやる機会があったんです。そのときに招待してくださった公邸の方が、バンコクにも美味しい寿司屋があるので行かないかと言って連れて行ってもらい。そしてそのお寿司屋さんが全く美味しくなかったんです。美味しくなさそうな顔をしていたら“タイの有数の地域の米で、マグロも築地で教わった人たちが作ったものなの美味しいはずなんだ”と言われて、ハッとしたんです。
そのときに自分を重ねて“自分は今こういうことをやっているのではないか”と思った。心が大きく揺れ動く瞬間で、僕はフランスへ行くことを心に決めました。
その後フランスへ渡り、大きな自信をつけたのはフランスのテレビ番組「Le Meilleur Patissier les Professionnels」でした。2年連続の優勝でした。日本人が勝つという事が当時ありえなかったんです。例えるなら、フランス人の寿司職人が日本の寿司の大会で優勝するようなもの。
その時の審査員はあのピエール・エルメ氏でした。彼は、日本人でもフランス人でもなく、美味しいお菓子を作る人を勝たせたいと考えている人だった。ピエール・エルメ氏は、僕の道を切り開いてくださったような存在でした。」