「ナベツネ」の通称で知られ、マスコミや政界、プロ野球などに大きな影響力を持ち続けた読売新聞グループ本社代表取締役主筆の渡邉恒雄氏が2024年12月19日、肺炎のため死去した。98歳だった。

強烈なリーダーシップで、憲法改正などを主張する同社の社論を長年牽引し、90歳を超えても経営・編集トップの座に君臨、歴代首相とも概ね特別に深い関係にあった。

しばしばジャーナリズムの枠を超えたような言動もあり、批判されたことも少なくなかった。毀誉褒貶が極端に分かれたものの、近年では類例のない、多方面に剛腕・異能ぶりを轟かせた新聞人だった。

政治記者として「政府声明」を代筆

1926年、東京生まれ。8歳の時に銀行員の父を亡くした。家作があり、生活には苦労しなかったが、5人兄弟の長男ということで母から期待をかけられ、小学校のころから猛勉強を強いられた。

東大文学部哲学科卒。同大学院・新聞研究所を中退して50(昭和25)年、読売新聞に。政治部記者として頭角を現す。保守政界の重鎮だった大野伴睦氏(のち自民党副総裁)の懐に深く入り込み、特別の信頼を得たことで、他派閥の領袖とも対等に話せる関係をつくった。

達者な筆力で若くして『派閥』『大臣』などの著作を連発、政局の節目では密使として動いた。右翼の大立者で政財界の黒幕と言われた児玉誉士夫氏とも付き合った。60年安保の混乱で東大生の樺美智子さんが亡くなったときは、記者にもかかわらず、政府声明を代筆したと明かしている。

68年、ワシントン支局長、72年、解説部長。75年に政治部長になったときは創価学会と共産党の「創共協定」をスクープした。79年には取締役論説委員長に就任、経営陣の一員にもなった。

自民党の大物政治家の中では中曽根康弘氏と「盟友関係」。駆け出し時代から一緒に勉強会をやり、初入閣でも骨を折った。82年の中曽根政権誕生では、それまで「反中曽根」だった田中角栄元首相らを翻意させる裏工作などで貢献した。総理になってからは「毎日のように電話で話をしていた」という。

85年、専務取締役・主筆・論説委員長。91年、読売新聞社社長・主筆。96年、読売ジャイアンツのオーナー。99年には経営難に陥った「中央公論社」の営業権を買収し、のち子会社化した。

2007年11月に政界をにぎわした、自民党と民主党の「大連立構想」ではフィクサーとして名が挙がった。特定秘密の保護に関する法律「情報保全諮問会議」の座長になるなど、「新聞人」の枠を超えたと指摘されるような動きも目立った。

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改憲キャンペーンと戦争責任追及

経営トップとなってからも、社論全体をつかさどる「主筆」の肩書を保持し、元旦の社説を書くなど読売新聞の紙面全体の論調を決めてきた。

とりわけ憲法改正にはこだわり、まだ世論が消極的だった90年代初めから、改憲キャンペーンを積極的に展開。それまで半ばタブー視されていた改憲論議の旗振り役となり、改憲への道筋づくりに力を注いだ。

一方で、自民のタカ派「青嵐会」とは一線を画し、首相の靖国参拝には否定的だった。

「歴史認識を間違えさせる施設が(靖国神社の)遊就館だ」「A級戦犯のうち、少なくとも東条英機元首相ら何人かは無謀な戦争を企てた。何百万人の国民を殺した人間がいるのに『無数の英霊のため』という理由で首相が靖国神社に行くのは理解できない」と言い切り、「無宗教の国立追悼・平和祈念碑の建設を」と主張した(2005年11月25日、読売新聞)。

また、戦争責任を問うことにもこだわった。05年には社内に戦争責任検証委員会を発足させ、戦前の軍部や内閣の責任を追及。検証内容を公開した。

「過去の指導者の間違いの歴史を検証することは読売新聞の社論の柱だ」とし、「歴代首相は優柔不断ではっきりとした謝罪の仕方を示さなかった。できれば国会に戦争責任検証常任委員会を」と提唱したこともあった(06年3月24日、読売新聞)。

『渡邉恒雄回想録』(中央公論新社)や『わが人生記』(中公新書ラクレ)などによると、戦前の東京・開成中時代から、反戦・反軍的な言動で学内では目立っていた。

旧制東京高校に進んでからも軍国主義的な教育を押し付ける校長らを殴るなど反抗した。「君が代」は歌わなかったという。戦争末期には二等兵として徴兵されたが、敗戦必至と確信、「軍人勅諭なんてバカバカしくて読まなかった」。

軍隊では毎日のように古参兵から殴る蹴るの制裁も受けた。「開戦時の閣僚は許せないんだよ」「僕らの仲間が特攻隊で殺されていったんだから」との思いは人一倍強かった。

そんなこともあり戦後まもなく、「天皇制打倒」という共産党のビラに共鳴して入党。一時は東大の中心的な学生党員として精力的に活動した。のちに党の方針に根本的疑問を感じ、離党、除名となったが、「一年か二年、非常に思想的に苦しんだ」と回想している。