恵比寿で彼と同棲を始めた29歳女。結婚へのカウントダウンと意気込んでいたら…

同棲。

それは、デートと結婚の間にあるグラデーションのような、恋人たちの甘い世界。

けれどそんな甘い世界は、少しでも気を抜けば、一瞬で残酷な世界へと表情を変える。

ふたりの距離が近づけば近づくほど、心は離れていく。そんな真実を浮かび上がらせる、残酷な恋の地獄にもなり得る──。

明里と亮太郎が住む1LDKの空間は、恋人たちの甘い世界となるか、それとも…。

Vol.1 クリスマス<明里>



― ちゃんと、話さなきゃ。

明治通りに面した広い窓から、燦々と日の光が差し込んでいる。

12畳のリビングから、少し奥まった場所に位置するキッチン。そこからすぐの場所に置かれたビンテージ調のダイニングテーブルは、同棲を始めてすぐの頃に購入したものだ。目黒通りを何往復もして、理想のダイニングテーブルを選び抜いた。

そして私は今、そのダイニングテーブルの席に着いている。

テーブルを挟んで向かいに座る亮太郎の表情は、窓から差し込む光が逆光になって、よく見えない。

けれど、不思議とこれだけはハッキリと感じ取ることができた。

― 亮太郎が、遠い。

12畳のリビングに6畳のベッドルームがある43平米の1LDK。決して広すぎる部屋じゃない。

それなのに、ダイニングテーブルの向こうの亮太郎は、はるか彼方にいるように感じた。

近くにいるのに、遠い。

同棲を始める前よりも彼を遠く感じるのは、どうしてなんだろう。一緒に暮らし始めた頃は、こんな日が来るなんて想像すらしていなかった。

― 話さなきゃ。

そう。だから、今日こそは──。

この1年ちょっとの同棲で溜め込みつづけた亮太郎への想いを、隠すことなく伝えるつもりだ。



亮太郎と私が一緒に暮らし始めたのは、1年3ヶ月前。ちょうど、クリスマスの日のことだった。

亮太郎が一人暮らしをしている、渋谷と恵比寿の間に位置するマンション。

その目の前に単身用のコンパクトな引っ越しトラックが停まって、洋服や靴などが入った数箱のダンボールと、私のシングルベッドが運び込まれていく。

12月の明治通りには珍しくちらちらと雪が舞っていて、粉砂糖みたいな細かい雪の粒がシングルベッドに触れては消え、触れては消えていたことを覚えている。

寝室に運び込まれた私のベッドは、もとからある亮太郎のベッドと示し合わせたみたいに、ぴったりくっついてひとつのベッドみたいになった。

「イエーイ」と叫びながら、ワイドキングサイズに進化したベッドに亮太郎がダイブする。

ゴロリと仰向けに寝転んだ亮太郎は、少しすねた表情を浮かべて両手を大きく開き、甘えるように私を抱き寄せた。

「明里の部屋にあったほかの家具とか家電は、みんな処分しちゃったんでしょ?ベッドたったひとつだけ持ってくるくらいなら、身ひとつで来ても良かったのに」

「家具や家電はここにある亮太郎のでいいけど、シングルベッドで毎晩2人で寝るのはさすがに狭いもん」

少し可愛げのない言い方になってしまったのは、この状況がどうしようもなく嬉しくて、照れくさくて、くすぐったかったから。

「まあね。これからずっと一緒だし、寝心地は大事か」

亮太郎はそんな私の気恥ずかしさを見透かしたようにつぶやくと、しばらく私を見つめて、それから優しくキスをした。

― 幸せ…。これから亮太郎とずっと一緒なんだ。

亮太郎がいつもつけているオードトワレ、メゾン マルジェラのレプリカ・レイジーサンデー モーニングの香りを胸いっぱいに吸い込みながら、私は心からそう思った。

亮太郎とは、友人が開催してくれた食事会で出会って、そろそろ1年。

27歳と私より2歳も年下だけれど、そんなことは感じさせないくらい私のことを可愛がってくれて、甘えさせてくれて、喜ばせてくれる。

とにかく一緒にいて心地よくて、私は付き合い始めてからの週末はほとんど毎週、亮太郎が一人暮らしするこのマンションに泊まりに来ていた。

けれど、大手広告代理店でクリエイティブディレクターとして働いている亮太郎と、学生時代に友人と立ち上げた女性支援事業のベンチャー企業で働く私は、月曜日の朝からしっかりと仕事の予定が詰まっている。

もう少し一緒にいたいけど、もう帰らないと…。

そんな半べその日曜日の夜を幾夜も過ごしていたある日、ふと亮太郎が言ったのだ。

「じゃあさ、もう明里がここに引っ越してくればいいじゃん。一緒に住もうよ」

「え…同棲ってこと?本当に?いいの?」

いいの?と聞きながらも、私は内心、そこらじゅうを飛び跳ねてまわりたいくらい感激していた。

― やったぁ、ついに来たー!

私は29歳。今度の3月で、30歳になる。

適齢期ど真ん中という年代で、周りの友人はどんどん結婚や妊娠・出産と人生のコマを進めていく中、どうしたってジリジリとした焦りを感じずにはいられなかったのだ。

この年齢から同棲するということは、結婚まではそう遠くないということだろう。

私は家族との折り合いが悪いのもあって、2年ほど前から等々力の実家を出て一人暮らしをしている。

だが、今住んでいる目黒の権之助坂のマンションはファミリー向けの部屋が多く、在宅リモートワーク時に聞こえてくる子どもや赤ちゃんがいる家の音には、少なからず悩まされていた。

だから、更新のタイミングでちょうど引っ越しを考えていたところだったのだ。

渡りに船の状態で迎えた、同棲初日のクリスマス。私と亮太郎は、引っ越し業者のスタッフが引き払うなり、大きなベッドの上で何回もキスを交わした。

そうして亮太郎に溺れていく間に、これから先の未来には幸せだけが待っていると思い込んでしまった。

甘やかな期待がこのあとすぐに裏切られることになるなんて…この時の私は、考えもしなかった。



ひとしきりベッドで幸せを噛み締め尽くした頃には、窓からの景色はすっかり夕闇の中に沈んでいた。

ハッとした私は、うっとりするようなまどろみを振り切り、乱れた髪を整える。そして、亮太郎に尋ねた。

「ね、今日はクリスマスだよ。夜はどうする?何食べる?」

付き合って1年に満たない亮太郎とは、まだクリスマスを一緒に過ごしたことはない。

だけどこれまで、イベントごとは都度大切に過ごしてきたのだ。

私の29歳の誕生日は、箱根の宿で露天風呂付き客室に泊まった。

3ヶ月記念日は、ディズニーシーに行った。

半年記念日は『鮨 波残』でディナーしたあとにザ・リッツ・カールトン東京に泊まったし、9月の亮太郎の誕生日もハレクラニ沖縄にステイしてお祝いした。

はじめて過ごすクリスマスは一体何をするんだろう?

引っ越しの当日という大仕事があった以上、大きなことができるとは思ってはいない。

だけど、たいしたデートはできないまでも、どこか素敵なレストランにディナーに行くくらいのことはきっと企画してくれていると思い込んでいた。

亮太郎の誕生日は私が計画したものの、他のイベントに関しては、亮太郎はいつだって素敵なサプライズを準備してくれていたから。

けれど亮太郎は、上半身裸のまま眠そうにあくびをしながら答える。

「いいよいいよ。これからはずっと一緒にいられるんだから、引っ越した今日くらいはゆっくりして大丈夫」

「え…、ん?どういうこと?」

その言葉の意味がわからずきょとんとする私の頭を、亮太郎は愛おしげにポンポンと叩く。

そして、脱ぎ捨てた服をもう一度身につけながら、屈託のない笑顔で言った。

「引っ越しの当日くらい、ゆっくりしようよ。近くのスーパーでなんか買う?

この近くだとライフか、アトレ恵比寿のザ・ガーデンがどっちも徒歩10分くらいだよ。どっち行こっか」

急激に、頭が冷えていく。

それは、初めて一緒に過ごすクリスマスだというのに、亮太郎が何もデートプランを立てていない…ということにではない。

初めて一緒に過ごすクリスマスだというのに、サプライズを期待して何もかもを亮太郎に任せっきりにしてしまっていた、自分の自惚れっぷりに気が付いたからだった。

「あ…ごめん、やだ。私すっかり勘違いしちゃってたみたい」

「ん?なにが?」

気が付けば、すでにさっさと玄関で靴を履いた亮太郎が、ニコニコと幸せそうに笑いながら手を差し伸べている。

「ううん、なんでもない。じゃあライフ行こ、ライフ!」

私は慌てて笑顔を取り繕うとコートを羽織り、急いで亮太郎の手を握り返した。

ライフ渋谷東店までの往復の道のりは、2人でしっかりと手をつなぎ、肩を寄せ合いながら歩いた。

亮太郎はすべての荷物を持ってくれたし、やっぱりふたりで一緒にいられると嬉しくて嬉しくて、家に着く頃にはまた、私の体は隅々まで幸福で満たされていた。

先に玄関のドアを開けた亮太郎が、寒さで赤くなった鼻をすすりながら言う。

「明里、おかえり」

「えへへ…ただいまっ」

これまで「お邪魔します」というセリフで入っていたドアに、「ただいま」と言える喜び。

その甘く染み入るような感覚は、これまでにもらったことがあるどんなクリスマスプレゼントよりも嬉しかった。

お総菜のチキン。簡単なサラダ。ロゼのシャンパンと、イチゴのサンタが乗ったシンプルなクリスマスケーキ。

ソファの前のコーヒーテーブルにギュウギュウに並べた素朴なディナーは、幸福な生活の味がした。

それからディナーのあと、私が亮太郎にボッテガのキーケースをプレゼントすると、亮太郎は困ったような表情を浮かべて言った。

「ごめん、明里…。俺、準備間に合わなくて。もう一緒に暮らすんだから、こんなふうに頑張らなくていいのに」

「ううん、忙しい中、引っ越しのいろんな手配してくれたし!全然大丈夫だよ、気にしないで!」

“大好きな恋人の家”が“私たちの家”になった幸福感に舞い上がっていた私は、かえって恐縮して首と手をブンブン振り回すことしかできなかった。

亮太郎の申し訳なさそうな口元から放たれた言葉の意味を、そんな私がきちんと理解できるようになるまでは───当然、まだまだ長い時間を要することになる。



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