◆前回までのあらすじ
同棲を始めたばかりの亮太郎(27)と明里(29)。初めての共同生活に密かに不満を溜めつつある明里だが、一方の亮太郎は何も考えておらず…。
▶前回:「家族に紹介してほしかったのに…」年末年始は、彼氏と過ごせなかった29歳女の憂鬱
Vol.4 代役<亮太郎>
神泉のビルの地下にある撮影スタジオの中には、1LDKの部屋があった。
本当の部屋ではない。CM撮影用に組まれたセットで、虚構の部屋だ。
花柄のカバーのシングルベッドに、グラスに飾られた小さな花。可愛らしい猫の置物に、フワフワのスリッパ。
若い女の子の住まいをイメージして造られた部屋で、ピンクのカーテンの向こうからは、外界で降り続けている雨などおかまいなく自然光風のライトの光が降り注いでいる。
一方、光に満ち溢れたその空間のすぐ手前は、まるで対照的な剥き出しの無骨な暗闇だ。
カメラや機材が所狭しと敷き詰められた撮影スペース。その、いやになるほど現実的な暗闇の中で俺は、ぼんやりと呑気なことを考えていた。
― あのEMUのスリッパいいな。撮影が終わったら買い取りして、明里にプレゼントしたら喜ぶかな?明里、いつも足冷えてるし。
と、その瞬間。突然、スパン!というイイ音とともに、俺の背中に軽い衝撃が走った。
「ちょ…」
「おす。なーにボーっとしてんだよ」
驚いて振り返ると、そこに立っていたのは瑛介だ。
瑛介は会社の同期であり、やり手の営業マン。さらには、俺の親しい友人でもある。
何の因果か同じクライアントの案件にアサインされて、今日はこうしてWeb広告の撮影に同席しているのだった。
「おつかれ。さすがにモデルさん来たら気合入れるわ。そっちは?クライアントは何時に来るんだっけ?」
「えーと、今が8時半だから…あと1時間くらいかな」
先方の社長がミーハーで「撮影に立ち会いたい」と希望しているため、営業である瑛介は、アテンドのために来ているのだ。
けれど瑛介はまったく仕事の話に興味を示す様子もなく、俺の頭のてっぺんから足の先までジロジロと観察したうえで、言った。
「…って、亮太郎。お前、一体どうしちゃったんだよ?」
「え?何が?」
おそるおそる尋ねると、瑛介は俺のすぐかたわらを指差して言った。
壁際にセットされた簡易型の長テーブル。その上には、演者やスタッフが休憩時に食べられるように『とんかつ まい泉』の弁当が山積みになっている。
「亮太郎。お前の大・大・大好物のまい泉がこんなにあるのに!ひとつも食べてないなんてどうしちゃったんだよ!?」
悪ふざけじみた会話に肩の力が抜けた俺は、半ば呆れながら答える。
「いや、単純に腹いっぱいなだけ。朝メシ、最近は毎日たくさん明里が作ってくれるからさ」
そう言うそばから口もとが緩んでしまっていることは、自分でも認めざるを得ない事実だった。
「かぁ〜、なんだよ!結局ノロケかよぉ。てか、亮太郎は今日は朝7時入りだろ?それで朝ごはん作ってくれるなんて、これは明里ちゃんにかなり甘やかされてるね」
「まあね。おかげさまで、幸せだよ」
「それもこれも、俺が開催した食事会のおかげだな。感謝してもらおうか」
「まあ、お前の遊びに無理やり付き合わされたようなもんだったけどね。結果的には、瑛介様には感謝してもしきれませんよ」
悪友である瑛介の手前、おちょくるような言い方になってしまう。けれど実際、その言葉に全く嘘はなかった。
明里と暮らし始めて、そろそろ1ヶ月が経つ。そしてこの1ヶ月は、俺の人生の中で最もと言っていいくらい幸せな時間になっている。
朝起きたら、明里が笑っている。
家に帰ったら明里が待っている。
寝る時も、明里が隣にいる。
そのうえこうして毎日、明里のお得意の手料理が食べられるのだ。
学生時代に料理教室できっちり基本の家庭料理を学んだという明里の手料理は、実家の母のものとは全然違って、洗練された味がする。
明里と暮らし始めてからの毎日は、楽しくて、癒やされて、安心できて…とにかく信じられないほどに幸福なのだった。
「いや、本当ただのノロケでしかないんだけど、明里と一緒にいるとめちゃくちゃ幸せなんだよ。
瑛介みたいに色んな女の子にモテまくるのもすごいけどさ、そういうのマジでどうでも良くなるくらい、同棲最高すぎるわ」
幸福感に浸る俺の表情をうんざりした様子で睨んでいた瑛介だったが、すぐにふっと表情を緩める。
そして、指の長い手のひらで再び俺の背中をバンと叩いたかと思うと、しみじみと呟いた。
「良かったな亮太郎。結局、お前には明里ちゃんみたいなしっかりした子が合ってたってわけだ。今まで付き合ってきた子たちとは全然違うもんな」
「バカ、職場でそんな話やめろよな。特にここでは」
瑛介の乱暴な態度に合わせて、俺も瑛介に軽いローキックを返しながら返事を続ける。
「…いやでも、実際そう。明里はなんていうか、…これまでの彼女とは全然違うんだ。 俺はこのまま明里と一緒にいられるだけで満足」
けれど瑛介は途端に眉をひそめ、遠くを見るような目つきで呟く。
「はいはい。でもどうかな、明里ちゃんもお前と同じように思ってるといいけどな」
一瞬、ローキックが強すぎたのかと思ったが、瑛介がおかしな表情を浮かべる理由はそうではなさそうだった。言葉の意味するところがわからず聞き返す。
「なにそれ。どういう意味?」
「いや、だってさぁ。明里ちゃんってたしか、ちょっと年上だろ?それって多分向こうは…」
と、瑛介が説明しようとした、その時だった。
「亮太郎さん!!」
スタジオ中に響きわたるようなボリュームで、部署の後輩であるチコの声が響き渡る。俺の姿を捉えたチコは、悲鳴にも似た声をあげた。
「まずいです!今入ったモデルさん、ケガです!」
チコが焦るのも仕方のないことだった。
俺と瑛介が慌ててチコについて行くと、エントランスから続く階段の下で、モデルの女の子がうずくまってスタッフから介抱を受けていた。どうやら雨で濡れた床に滑って、階段から転落したらしい。
「すみません…すみません…」
そう小さく繰り返すモデルの額にはうっすらと血が滲んでいて、たとえケガが大事でなくても、撮影に支障が出ることは明らかだ。
「とにかく──病院行ってもらって、こっち代役探すから」
チコに指示を出しながら、俺はスタジオの暗闇の中へと戻り、思わず頭を抱えた。すぐに気持ちを切り替えて、カバンの中の資料を大急ぎで確認していく。
今日のCM撮影にあたり、今のモデルと同じエージェンシーにいる子には全て目を通した。その上で、スポンサーのイメージに合う子がいないことは既にわかっている。
今から代役を立てるのは、どう考えても無理難題だった。
「やばいわコレ…。今から改めてタレント探して、代役立てて…って。誰か見つかったところで、スポンサーのチェックもできないまま撮影なんてできないし」
年末年始を挟んだ案件ということもあり、スケジュールにはただでさえ余裕がない。
けれどその時。冷や汗を滲ませる俺に向かって、瑛介が言った。
「いや。今からクライアントの社長さんと広報担当さんとか諸々来るから、手あたりしだい代役を集めれば、もしかしたらOK下りる可能性あるかも」
「…確かに。なくはないか」
クライアントは、新興の引っ越し会社だ。一代でのし上がったオーナー社長のトップダウンで、決定はシンプル。先ほどケガしたモデルもたしか、単純に社長の好みだという独断で決定した経緯だったはずだ。
同じタイプのタレントをピックアップできさえすれば──瑛介の言うとおり、この場で許可を取り撮影が進められる可能性は、ゼロではないかもしれなかった。
― だけど…どうやって探せばいい?ぴったりな代役なんてどこにいる?
さっきまでの明里を想う甘い気持ちはどこかへ吹き飛び、俺は頭をフル回転させる。
今回のCMには、セリフはない。大切なのはビジュアルのイメージだ。
身長は低め。折れそうな華奢な体つき。清楚な長い髪。
つんと上向きの小さな鼻。厚めのくちびる。少し離れ気味で、長いまつ毛に縁取られた色っぽい垂れ目──。
と、そこまで考えて、俺はハッと顔を上げた。瑛介が歩み寄る。
「誰か思い当たるのか?」
「うん。読者モデルやってる、ほとんど素人の子だけど…ビジュアルはバッチリだと思う」
俺の脳裏に浮かんだ子は、年齢も20代半ばという条件にも当てはまる。
そういえば去年の11月に彼女に出会った時、密かに「今度の案件のモデルさんに似てるな」なんて思ったのだった。
それに、住んでいる場所は松濤のはずだ。都合さえ合えば、今すぐこの神泉のスタジオまで来てくれるかもしれない。
俺は大急ぎでスマホを取り出し、LINEの「友だち」リストをスワイプする。
「歌織ちゃん、歌織ちゃん…あった!」
善は急げだ。画面を押し進め、音声通話をタップしようとした───その時。
差し込んだ一筋の光の前に、明里の顔が雨雲のように立ち込めた気がした。
― いや、でも。やっぱ…明里になんか言われるかな。
「なんだって?来られるって?来られるなら俺、事前にあちらの社長に連絡入れるよ」
そう言って画面を覗き込む瑛介に、俺は言い淀む。
「いや…。この子ちょっと、訳アリっていうか…」
「はぁ?それは先方が聞いてから決めれば良くない?とりあえず誰も準備できませんでしたはマジでナイから。条件合うならどうにか呼んでよ」
「うん、…だよな。わかった。聞いてみる」
顔を歪めて俺に詰め寄る瑛介の言い分は、広告マンとしては当然の主張だ。ただの私情で無下にすることはできない。
四方から非情な現実が迫り来る暗闇の中で、俺は煌々と光るスマホの画面をタップし耳に当てる。
こんな状況だ。明里には、事後報告になるけれど仕方がない。
優しい明里ならきっと、笑って許してくれるに決まってる。
▶前回:「家族に紹介してほしかったのに…」年末年始は、彼氏と過ごせなかった29歳女の憂鬱
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亮太郎が声をかけた相手。それは、明里にとっては最悪の人物だった