「社会的権利の侵害」という恐ろしい概念
彼は「社会的権利」を次のように定義した。
「私の社会的権利を侵害するものがあるとすれば、酒の販売がまさにそれにあたる。酒はいつでも社会に混乱をもたらし、その混乱を助長する。それによって、私の最も重要な権利である“安全”を損なっている。酒の販売は、利益を得るために貧困層を生み出し、その貧困層を支援するために税金を支払う必要を生じさせる。それによって、私の“平等”という権利を損なっている。
酒のせいで、私はどこに行っても危険に取り囲まれる。また、酒は社会を弱らせて堕落させるので、他者と支援し合ったり、交流したりするのがむずかしくなる。つまり、私の“道徳と知性を自由に成長させる権利”までもが損なわれている」
「社会的権利」というものが、これほど大胆な言葉で定義されたのは初めてだろう。幹事の主張は、要するにこういうことだ。
「すべての個人は社会的権利をもっている。それは、自分が義務だと思うことをあらゆる面で完璧に果たすよう、自分以外の全員に要求する権利である」
そして、この義務を少しでも怠った人にはこう言うのだ。
「あなたは私の社会的権利を侵害している。だから、そのような行為をなくすために、法律を制定する権利が私にはある」
このような常識外れの原則は、自由への干渉そのものよりはるかに危険だ。この原則に従えば、自由を侵害する行為はすべて正当化される。もはや、人はどんな自由も主張できなくなってしまう。唯一の例外は、心のなかで意見をもつ自由ぐらいだろう。しかし、その意見を誰かに話すことは許されない。もし、私にとって有害な意見を誰かが口にすれば、その行為は、私の“社会的権利”のすべてを侵害することだと言えるからだ。
連合の幹事の考え方に従えば、人は他者に対して、完璧な道徳心、完璧な知性、さらには完璧な肉体まで求める権利があることになる。そのうえ、何をもって「完璧」とするかは、要求する側の基準にもとづいて決められるのだ。
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「安息日に関する法律」は自由を侵害している
個人の「正当な権利」に対する「不当な干渉」として、もうひとつ重要な例がある。
「いつか危険をもたらすかもしれない」という類のものではなく、すでに私たちの社会に存在し、長きにわたって自由を侵害してきたものだ。すなわち、安息日に関する法律である。
ユダヤ教徒は、よほどの緊急事態でないかぎり、週に一度は日常的な仕事を休まなければならない。ユダヤ教徒ではない人々にとっても、この習慣は有意義なものになるだろう。
だが、この義務が守られるためには、労働者階級全体がこの習慣に合意していなければならない。なぜなら、誰かひとりが働いたら、ほかの人たちにも働く義務が生じるからるからだ。法律を制定し、ほとんどの産業に休日を設けることを義務づければ、労働者たちは「その日は全員が休みをとる」と信じられるようになる。その観点から考えると、安息日を義務づけるのは正当なことだ。
しかし、全員がこの習慣を守ることがほかの労働者の利益につながらない場合、その正当性は失われる。つまり「暇な時間を使って仕事をしよう」と決めて働いている人を強制的に休ませるのは間違っているのだ。
また、安息日のせいで誰かの楽しみが失われることも許されない。実際、娯楽とは誰かの労働のおかげで生まれるものだ。多くの人の娯楽のために少数の人が働くことには価値がある。その娯楽が、人々の英気を養うものだとしたらなおさらだ。ただし、その少数の労働者には、仕事を「選ぶ」自由と「やめる」自由が与えられていなければならない。
労働者は、「誰もが日曜日も働くようになれば、6日分の給料で7日間働かされることになる」と考えるかもしれない。たしかに、その考えは正しい。しかし、日曜日に他者の娯楽のために働く人は、それに見合った給料をもらえるはずだ。お金よりも休みが欲しいなら、違う仕事を選べばいい。別に私たちは、特定の職業に就く義務など負っていない。あるいは、日曜日に働かなければならない人に別の配慮をすべきだというなら、日曜日の代わりにほかの曜日を安息日にすればいいのだ。