宗教の名のもとに広がる抑圧とその危険性

日曜日の娯楽を禁じる唯一の方法は、宗教によって禁止することだ。しかし、宗教をそんなふうに用いるのは許されない行為であり、私たちは断固として反対しなければならない。ローマの皇帝ティベリウスが言ったように、「神に逆らった者は神によって裁かれる」べきだ。社会やその代表者が「それは人間にとって有害ではないが、神に背く行為だ」などと言って、その行為を神に代わって裁くことができるのだろうか。いまのところ、そういう行為を正当化できる根拠は存在しない。

「人は他者に宗教心をもたせる義務がある」という考えは、人類のあらゆる宗教的迫害の基礎になっている。その考えを認めるのは、すべての迫害を認めるのと同じことだ。

鉄道が日曜日に運行するのをやめさせようとする活動家も、日曜日に美術館が開館することに反対する活動家も、かつて迫害を行った人々ほど残酷ではない。だが、背景にある考え方は、迫害者のそれと変わらない。すなわち、「おれの宗教で許されていないことは、おまえの宗教では認められているとしても、けっして許さない」という強い感情なのだ。

その人たちの考えに従うなら、神は異教徒の行動を嫌悪するだけにとどまらない。異教徒の行動を放っておく人も罪人と見なされてしまう。 

ジョン・スチュアート・ミル

政治哲学者

経済思想家

※本記事は、約165年前に出版された19世紀を代表するイギリスの政治哲学者、経済思想家ジョン・スチュアート・ミルの「自由論」を基にした新訳書籍『すらすら読める新訳 自由論』(著:ジョン・スチュアート・ミル、その他:成田悠輔、翻訳:芝瑞紀、出版社:サンマーク出版)からの抜粋です。