近年、「多様性」という言葉が浸透してきた日本。しかし、ひと昔前までは「みんなと同じ」が当たり前でした。本記事では、中内玲子氏の著書『シリコンバレー式 世界一の子育て』(フローラル出版)より一部を抜粋・再編集して、国際色豊かな幼稚園での経験から、日本の教育の固定観念に疑問を持った理由をみていきましょう。
二十数年前の国際幼稚園、園児たちのお弁当
「こんなお弁当を持たせるなんて、かわいそうに」今思えば、この言葉が私の人生を大きく変えたのかもしれません。二十数年前、私は東京のある私立幼稚園に勤めていました。その幼稚園には、お父さんかお母さんが外国の方の園児も数人いました。
ある日、一人の女の子がカチカチにかたまったご飯を詰めたお弁当を持ってきました。親御さんは、数日前に炊いた古いご飯を詰めて持たせたのでしょう。その子は、「明後日のご飯だよ!」と言い間違えて文句を言いながらも、笑っていました。
そのお弁当を見て、ある先生が冒頭の「かわいそう」という言葉を使ったのです。その言葉を聞いて私の心には違和感が芽生えました。古いご飯を持たされたからといって、その子は「かわいそう」ではないのです。その子のおうちは、決して貧しくなく、愛情が無いわけでもありません。
お弁当に対する親御さんの考え方は国によっても大きく違い、さまざまだと思います。またその園には、ベジタリアンの女の子もいました。その子のお弁当は、野菜や豆腐ばかりで肉や魚が入っておらず、日本の子どもたちのお弁当とは違っていました。ベジタリアンのお弁当が珍しかったのか、今度は先生方がその子のお弁当を子どもから見えないところに持っていき、匂いをかいで顔をしかめたのです。
その先生方は、悪気はなかったのだと思います。食育を大切にする日本では、栄養バランスや彩りを考えた、おいしい手作りのお弁当を持たせるのが「当たり前」。古いご飯を持たされた子を「かわいそう」と思うのも、野菜や豆腐ばかりのお弁当を物珍しく思うのも、仕方のないことだったのかもしれません。
けれど、世界に目を向ければ、お弁当は多種多様です。ベジタリアンのお弁当もありますし、アメリカでは前日の夕飯の残り物を持たせるのはいいほうで、パンにハムを挟んだだけ、りんご1つだけなんてお弁当もあります。お弁当はみんな違っているのが「当たり前」ですし、親の愛はお弁当だけでは測れないのです。
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みんなと同じが当たり前?
この「みんなと同じが当たり前」という考え方は、当時の日本にはまだ残っていたように思います。一方で、台湾で生まれ、8歳で日本に移り住んだ私は、日本でできた友だちと楽しく過ごしながらも、どこかで日本人と自分の違いを感じていました。
また、保育の専門学校に入ってからアメリカへの視察旅行に行く際に、学校の先生から「日本人として恥ずかしくないように、がんばってきなさい」と言われたとき、「私、日本人じゃないのに」と違和感を覚え、改めて自分のアイデンティティについて考えるようになっていました。
そんな自分が、「みんなと同じでないといけません」なんて、心にもないことを子どもたちに言うことはできない。子どもはみんな一人ひとり違い、それぞれの個性があるはず。その一人ひとりの個性を伸ばせる幼児教育がしたい……。
そうした思いに突き動かされた私は、その幼稚園を辞めて、さまざまなバックグラウンドを持つ人々が集まるアメリカのカリフォルニアで幼児教育を学ぼうと決意しました。それからは節約をして幼稚園のお給料15万円のうち10万円を毎月貯金し、幼稚園退職後にもアルバイトをしてなんとか100万円を貯め、単身渡米しました。英語も話せないし、アメリカには知り合いもいない。車も持っていない。持っているのは、若さゆえの勢いと100万円の貯金。そして、「アメリカでなら、自分が理想とする幼児教育ができるんじゃないか」という強い思いだけでした。
中内 玲子
日英バイリンガル幼稚園Sora International Preschool
創立者