今や日本を代表するブランドの一つとなった無印良品。しかし、その始まりはスーパーのプライベートブランド商品でした。なぜ一般的なプライベートブランドとは異なるコンセプトが生まれたのでしょうか。北海道大学大学院経済学研究院准教授の満薗勇氏の著書『消費者と日本経済の歴史 高度成長から社会運動、推し活ブームまで』(中央公論新社)より、詳しく解説します。

無印良品の歴史的前提

無印良品の歴史は、1980年に西友のプライベートブランド(PB)商品として、家庭用品9品目・食品31品目が発売されたことに始まる。PB商品とは、流通業者が企画して独自のブランドで販売する商品である。無印良品の歴史的前提としては、60年代からのPB商品開発と、73年に設立された商品科学研究所の役割が重要であった。

1960年代から総合スーパー各社でPB商品の開発が始まり、ダイエーが先行し、西友ストアーは60年代末から、イトーヨーカ堂は70年代から取り組んでいた(由井常彦編『セゾンの歴史 変革のダイナミズム 上巻』リブロポート、1991年)。

当初、多くのPBは、メーカーと小売業者を併記したダブルチョップという方式で、メーカーのナショナルブランド(NB)を10%程度安く売ることに主眼が置かれた。しかし、70年代半ばから各社は、メーカーブランド名を外したPB開発に取り組むようになった。

西友でも、1975年に西友お茶漬けこんぶや西友とろろ昆布を発売した。77年には料理素材缶詰が予想を大きく上回る売れ行きを示したため、同年からSEIYULINEをPB商品の総合ブランドとして採用することを決定した。

料理素材缶詰は、うらごしかぼちゃのように、そのままスープやケーキなどの材料に使えるという缶詰で、NB商品の模倣や廉価版という性格のPBとは根本的に発想が異なる。以後、西友のPB商品開発は、生活者の声を反映させ、高品質な商品をリーズナブルな価格で提供するというコンセプトで進められた。

こうした商品開発のコンセプトを支えたのが、商品科学研究所の活動である。

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無印良品の原点

商品科学研究所は、1973年10月に西武流通グループの「企業利益の社会的還元」の1つとして、堤清二の肝いりで設立された(由井常彦編『セゾンの歴史 変革のダイナミズム 下巻』リブロポート、1991年)。経費は西友ストアーと西武百貨店で負担するが、独立の研究機関として自主的な運営を任された。

初代所長には、三枝佐枝子(1920~2023)が就いた。三枝は『婦人公論』初の女性編集長を務めた人物として知られ、1968年に退職していたが、堤清二に請われて商品科学研究所の初代所長となり、その活動に注力していく。理事には、社会学者の加藤秀俊(1930~2023)や、女優の高峰秀子(1924~2010)ら各界の有識者と、堤ら西武関係者が名を連ねた。



【画像】三枝佐枝子出所:満薗勇著『消費者と日本経済の歴史 高度成長から社会運動、推し活ブームまで』(中央公論新社、2024年)

商品科学研究所の活動の柱は、テストキッチン・コアを中心とした商品テストと調査研究にあった。テストキッチン・コアとは、「家庭の主婦が年会費を払い、商品の勉強会に出席したり商品テストのモニターに参加するというユニークな組織」とそのための施設のことで、スウェーデン生協によるテストキッチンをモデルとして、実際に家庭で使う状態でテストする方式をベースとした(『Two Way』1998年4月)。コアでの既存商品の比較研究をもとに、商品の改善や新商品の開発につながることも多かった。

無印良品を開発するきっかけも、コアでの活動にあった(由井常彦編『セゾンの歴史 変革のダイナミズム 下巻』リブロポート、1991年)。

コアで料理素材缶詰のマッシュルーム缶詰の試作品を検討した際に、西友の商品開発担当者と、メーカー、テストキッチン会員主婦によるディスカッションが行われ、その場で主婦から「マッシュルーム(ホール)は丸ごとなのに、何故スライスはカサの両はじをカットするの?」との発言が出た。

この発言から、1. 商品化による素材の無駄、2. 加工工程の増加による余計なコスト、3. 使い手にとっての必要性の有無、といったポイントへの気づきが生まれ、高品質のものを低コストで調達し、使い手にとっての機能追求で低価格化していく無印良品のコンセプトが固まっていった。