◆前回までのあらすじ
セレブ専業主婦の愛梨、バリキャリ共働き夫婦の由里子は、子どもの習い事が一緒で友人関係に。まりかは、起業家兼ピラティスインストラクターで、由里子とは昔の飲み友達。キャリアも立場も違う3人が、それぞれの悩みを打ち明けるくらいに仲良くなったが…。
▶前回:「恋愛がしたいのか、結婚がしたいのか…」こじらせ38歳女の本音
本当の私を取り戻すために:愛梨(37歳)専業主婦/夫の会社の役員
平日の朝は、だいたい同じ、ルーティンでできている。
朝ごはんを準備して、息子の圭太に食べさせる。幼稚園の持ち物チェック、玄関で日焼け止めを息子に塗り、手をつないでマンションのエントランスから外へ出る。
園が指定したバス停に送る。
今日も数分遅れでバスが到着し、添乗の先生がやさしい声で「おはようございます」と声をかける。
「おはようございます。よろしくお願いします。圭太、いってらっしゃい」
「ママ、じゃあね!」
圭太が乗るとすぐに出発したバスはどんどん小さくなっていき、胸の奥がきゅっとなる。
いつもならこのまま家に戻って洗濯機を回して、キッチンを片付けて、ピラティスをしに行くのが毎日のルーティンだ。
だけど、今朝は足が麻布十番商店街へ向いていた。
私は、なんとなく、昨年できたばかりのカフェに入る。
午前中だからだろうか。ノートパソコンを開いた人ばかりだが、辛うじて空席はある。
私はホットのカフェラテを注文し、空いている席に腰を下ろした。
本でも持ってくればよかったと思いながら、スマホでInstagramのストーリーズを流し見していく。
― 「SNS担当募集」か…。
ふと目に留まったのは、学生時代に同じダンス部だった友人が経営するエステサロンの求人投稿。
白金にある小さなサロンで、足痩せのマッサージに通ったことがある。
求人にピンと来て「よかったら、詳細を教えて」とDMしてみる。
しかし、その後私の頭の中はまた“夫の浮気疑惑”に支配されてしまった。
出会い系のアプリを使っているかも…という夫への不信感は、麻布十番の商店街で若い女性といるところを目撃したことで確信に変わった。
彼女とはギャラ飲みアプリで出会い、20代半ばで名前はメイ。Instagramもすぐに見つかり投稿をチェックしてみたが、キャプションには「楽しかった」「おいしかった」「可愛い」のオンパレード。
夫が彼女に求めるものは、若さと癒やし…要するに体だろうと想像がついて、さらに複雑な気持ちになった。
夫の将生は「肉体関係はない。やましいことはしていない」と淡々と息も乱さずに言っていた。しかし、彼から何の日でもないのに突然プレゼントされたグラフのリングは、懺悔の置き換えなのではないかと思ってしまう。
― だめだめ。もう考えるのはやめよう。
私はまた負の感情に引っ張られそうになり、ラテを一口飲んでからゆっくりと深呼吸をした。
将生と出会った日のことは、よく覚えている。
私が受付をしていた六本木の美容皮膚科に「肝臓に効く注射ありますか?」と電話をしてきたのが最初のコンタクト。
その後、会食の前に度々点滴をしに来てはその度に私は口説かれ、そのしつこさに根負けして食事に行った。
2軒目のバーで「付き合って欲しい」と告白された。
六本木にある外資系ホテルで挙げた結婚式。スイートルームに用意された真紅のバラ。妊娠がわかって、部屋で二人だけでシャンパンの替わりに炭酸水で乾杯した夜。圭太が産まれ、私の実家で一緒に過ごした時に味わった、初めての子育てへの緊張と終わりのない寝不足。
3組に1組の夫婦が離婚する時代だ。永遠なんてものは幻想。存在しない。
そんなことはわかっているけれど、私は離婚を選ぶつもりはない。
というか、選べない。
由里子みたいな盤石なキャリアも、まりかみたいにゼロから立ち上げるバイタリティもないから。
それでも…。
それでも、何かを変えないと、きっと将生は同じことを繰り返すし、私も本来の私から遠ざかってしまう。
ラテを半分ほど飲んだところで、2階席に上がってくる男性の声がした。
「…で、そこは計上のタイミングをずらして」
聞き慣れた声に、心臓が跳ねる。
将生だ。
いつもの白いTシャツにネイビーのジャケット。隣の男性は顧問税理士の田代だ。革の書類ケースを持ち、メタルフレームの眼鏡をかけている。
二人はこちらには気づかず、奥の二人掛けに腰を下ろした。私は反射的に顔を伏せ、そっと耳を澄ませた。
「OK。じゃあ、それで。来月もよろしくな」
「将生さん、最近プライベートはどうなんですか?相変わらず、遊んでるんでしょ」
「……ん?まぁ、食事くらいはね。若い子は話が軽くて楽だし、なんでもスゴイ〜!って褒めてくれるしさ。お店に行くより安上がりなんだよ」
田代が含み笑いをもらした。
「まぁ、わかりますけど。奥様にはバレないようにしないと」
「いや。もうバレてる…っていうか一回見られたんだよね。アプリで会った子といた時に」
「えっ!マジすか」
「うん。でも、本当に食事に行っただけ。もう会わないよ。まぁ、食事した後に流れで近所のシーシャバーに行った俺が悪いんだけどね。誤解されるようなことはしてたわけだし」
あの夜、私が泣き腫らした目で寝ていても将生は何も聞いてこなかった。
だから私は悟った。夫は浮気をしたのだと。
その日から、将生に対して優しくできなくなっていたし、どこか軽蔑したような眼差しで見ていたと思う。
けれど、こうして第三者に言う彼の言葉が胸の奥に静かに沈んでいき、また違う感情が湧き上がってくる。
それは安心に似ていたが、確信は持てずにいた。
「でも、心配させるようなことはしちゃダメだよな。田代も気をつけろよ」
私はそっと席を立った。
夜。将生は残業後、社員たちと食事を済ませてから帰ってきた。
「おかえり」
「ただいま。圭太は?さすがに寝てるか」
「うん、今日はなかなか寝つかなくて、絵本8冊読んで、21時半にやっと」
将生は「そっか」といいながらバスルームへ向かい、戻って来ると「ビール、もらっていい?」と言った。
私は、将生に缶ビールとグラスを渡し、ビールの泡が落ち着くのを待ってから口を開いた。
「ねぇ、将生」
「ん?」
「私ね、結婚してから異性の友達と会うのをやめてたんだけど、今後はお茶くらいしてもいいかな」
「…うん?別にいいけど」
将生は少し戸惑いながらも、反論することなくビールを飲み干した。
「それと、あなたの会社の役員として、経理補助や秘書のような仕事を時々しているじゃない?それが税金対策なのはわかるし、生活費を役員報酬としてもらうやり方にも賛成。だからやめるわけじゃないんだけど、それとは別に他の仕事もしていいかな」
「え、何をするの?ていうか、そんな時間ある?」
「あのね、友達がやってるエステサロンでSNSの更新を手伝いたいなって。家でもできるし、家事は代行使ったりして時間は作るよ」
カフェで友達にDMを送ったらすぐに返事があり、詳しい仕事内容や頻度についてやり取りをした。今は具体的なスタート日を決めている最中だ。
「そっかわかった。愛梨がやりたいなら、やってみたらいいんじゃない」
「ありがとう」
“男友達と会うな”も“育児に専念しろ”も将生に言われたわけじゃないのに、勝手に結婚とはそういうものなのだと決めつけて、私は私を束縛していたことに気づいた。
「寝るね。おやすみ」
将生に声を掛けて寝室に向かうと「俺ももう寝る」と言いながらテレビを消した。
歯を磨いている音が廊下の向こうで聞こえる。水が流れる音がして止まり、将生も静かに寝室のベッドに横になった。
「愛梨、ごめん。もう心配をかけるようなことはしないから、その…男友達と愛梨がふたりで会うのはちょっとイヤかも」
「私の気持ち、わかってくれたってこと?」
そう聞くと、答える代わりに寝たままの状態で後ろから抱きしめられた。
本当は男友達もそんなに多くないし食事に行きたいほどの人もいない。けれど、今はまだ言ってあげない。
傷ついたのは事実だから。
将生の寝息が聞こえ始めた頃、なかなか寝付けなかった私は、スマホを開きグループLINEに打ち込んだ。
『愛梨:私も昼間働くことにしたよ!エステサロンのSNS担当のポジションなんだけど、できると思う?笑』
すぐに、まりかから『前に美容皮膚科で受付やりながら広報もしてたんだよね?余裕だよ!ピッタリだと思う♡』と送られてきた。
由里子からも『うんうん!絶対大丈夫だよ』と返信が来る。
スタンプが飛び交う画面を眺めながら、じんわり胸が熱くなった。
女の友情は、環境次第でいとも簡単に遠のいたり消滅したりしてしまうものだと思っていた。
職場を辞めれば一緒に働いていた人とは疎遠になり、夫の稼ぎや子どもの有無で立場が違えば、自然と距離もできていく。
そう思っていたからこそ、心のどこかで「仲良くなりすぎるのはやめよう」と決めつけ身構えていたのかもしれない。
けれど、いま目の前にあるこの画面は違う。
キャリアも家庭環境もバラバラなのに、彼女たちは私の話を聞き、背中を押してくれる。弱音を吐けば笑い飛ばしてくれるし、小さな一歩を踏み出せば大げさに喜んでくれる。
だから私は決めた。友情の賞味期限を勝手に恐れるのはやめよう、と。
彼女たちとなら、この先もきっと笑い合えるはずだから。
▶前回:「恋愛がしたいのか、結婚がしたいのか…」こじらせ38歳女の本音
▶1話目はこちら:「男の人ってズルい…」結婚して子どもができても、生活が全然変わらない
▶Next:10月22日 水曜更新予定
一方、由里子は夫との不仲を解消したかったが…

