
個性を重んじる「現代性」の影響もあいまって、老人であることを客観視できず、「おれはおれ」意識で行動する老人が増えている――。自らもシニア世代の勢古浩爾氏(執筆当時77歳)の現代の老人に対する考察とは? 著書『おれは老人? 平成・令和の“新じいさん”出現!』(清流出版)の一部を抜粋・再編集してご紹介しよう。
老人は汚い、は禁句か
五木寛之が「体は枯れても、心は枯れない。この不自然な矛盾が、高齢者の生き方を厄介なものにするのである」と書いていた。
どう「厄介な」生き方になるのか、五木はとくに書いてはいない。だが、老人になると、身体が衰える分、「世俗的な欲望は高まってくるのではないか」といい、その結果、例として「世にいうヒヒ爺」になることを挙げている。
たしかにそういうことはある。「ヒヒ爺」になるか、田原総一朗のような「おれは偉いんだぞじじい」になるか、である。
問題は、老人がそれを「厄介な」ことと考えていないことである。それどころか、老人であることを忘れて、調子に乗っているフシがある。客観視できず、「おれはおれ」意識でやっているのだ。世間と心がまったくかみ合っていない。本人は「おれはおれ」と思っても、世間ではただのじいさん、ということがわかっていない。
そして世間でもいわないし、老人本人も避けているが、五木のいう「体は枯れて」とは、体が弱ったり衰えたりすることはその通りだが、それ以上に、はっきりいって体が汚くなる、ということをいっている。いや、もし五木本人がそこまでいってないよ、というのなら、わたしがそういいたがっている。
老人になると、体も、顔も(皮膚も)、いやおうなく汚くなる。汚くなるというのがいいすぎなら、年を取れば取るほど、男も女も容色が衰える。まぎれもない事実だ。だから女性は抗うのではないか。
ひとりでいるとき「老人」を意識はしないが、ひとりで鏡を見るとき、我々が見るのは「老人」以外の何物でもない。こんな事実は社会的にいわないことになっているのか。そんなあたりまえのこと、いってどうする、ということか。
「ルッキズム」(外見重視主義)はいけない、ということになっている。だがこれがウソバレバレのタテマエ(ポリティカル・コレクトネス)であることは、みんなわかっている。
マスコミも、スポーツ界も、芸能界も、普通の世間も、世の中はすべて、それで動いているではないか。
老人じゃないと考えて、調子に乗る
わたしはわたしの「汚さ」を自覚する。体は枯れる。しかし心は枯れない。「この不自然な矛盾」について、わたしは体の「汚さ」に軍配を上げるのである。
この矛盾を解消する方法はあるか。できるだけ体型を維持するようにする。肥満は許せない。が、体のシワはどうしようもない。皮膚のタルミもいかんともしがたい。
だからせめて、こういうことを心がける。身ぎれいにする。立ち居振る舞いは穏やかに。言葉遣いは柔らかくする。養老孟司が「年寄りはにこにこしてればいいんですよ」といったと記憶しているが、その意味も、こういうことだろうと思う。
怒るな、無礼な振る舞いはするな、穏やかにしておけ、ということだと思う。別段こういう所作は老人の専売特許でもなんでもないが、昔から、老人ならこういうことができてあたりまえの心がけだったはずである。
だが「おれはおれ」意識は、現代的欲望に似せていくのである。だから、こういう辛気臭いことはそっちのけで、都合よくこう考えて納得する。
「年相応」など、ない。恋愛に「いい年をして」など、ない。したいことがあったら、いくつになっても遅すぎるということは、ない。第二の人生だ、楽しむがいい。人生は一回きりだ、楽しむがいい。楽しまないと、損だ。
これが現代の年寄りがもっている「おれはおれ」意識である。「おれ」意識は「老人」意識に優越するのである。
正直にいうと、わたしにもそのような「おれはおれ」意識がある。おれはいいけど、あなたはだめ、という自己優越意識もある。けれど、わたしは昔の感覚がいまだに体から抜けきらないせいか、その自分意識にずぶずぶになることはない。
酒が飲めない体質というものがあるように、「おれはおれ」にずぶずぶになることができない体質なのだ。
