◆これまでのあらすじ
正輝と萌香は恋人同士。ついにプロポーズされ結婚が決まった萌香は、幸せの絶頂にいた。
けれど、正輝の性別を超えた親友・莉乃は、萌香がある晩正輝ではない男とホテルに向かう姿を目撃。親友の婚約者が不貞を働いているかもしれないことを伝えるか迷った莉乃だったが、正輝を呼び出して伝えた言葉は、「結婚おめでとう」の言葉だけだった。
▶前回:「おめでとう」の裏で揺れる心。長年の男友達の婚約に、30歳女が決断したこと
Vol.14 <萌香>
正輝くんのご実家に向かう車の中で、私はすっかり諦めの境地に至っていた。
― あーあ、正輝くんとはここまでか…。
莉乃さんから正輝くんへの“話”。そんなのもちろん、私のあの夜のことに決まっている。
「萌香ちゃんが知らない男とホテルに行こうとしていた」
「夜の恵比寿の路上でキスしてた」
莉乃さんが、どんなふうに伝えるかはわからない。
だけど、仮にも親友の彼女のそんなシーンを見てしまったのだ。結婚相手となるならば、このまま黙ってはいられないということなのだろう。
― 酔ってたし、自暴自棄な気分になってたとはいえ…私、バカなことしちゃったな。
本当は今すぐにでも、正輝くんを引きとめたい。「莉乃さんのところに行かないで」と激怒して、泣き喚きたい。
そして、自分の口で全てを打ち明けて──謝って、縋りついて、あの夜のことなんて無かったことにしてしまいたかった。
だけど、きっとそんなことにはならない。
正輝くんのご家族とも付き合いがあるという莉乃さんなのだ。正輝くんに「会わないで」と言ったところで、一時凌ぎ。きっといつかはバレてしまうし、なにより、正輝くんのことは束縛しておきながら私は男性とふたりで会っていた…なんて状況で、ゆるしてもらえるわけがない。
涙は不思議と出てこなかった。
ただ、今までずっと幸せな夢を見ていたような浮遊感だけがある。
「莉乃さんにいっぱい、私たちの幸せ自慢してきて」
そう言いながら私は、薬指のリングを陽の光にかざす。
もう少しだけ、この甘い夢の中に浸っていたかった。
もう少しだけ、夢を見ていたい──。
そう思っていたのに。
莉乃さんと正輝くんがランチをしてから、1週間が経つ今日。私が立っているのは、六本木のラグジュアリーホテルだ。
それも、正輝くんと式場の見学をするために。
「うーん…これだとちょっと手狭かな?萌香はどう思う?」
プロポーズをされたホテルのボールルームで、好きな人と結婚式の話をしている。
もしかして、まだ夢を見ているんだろうか?そう思って、思わずほっぺたをつねってみたくなる。
けれどどうやらこれは、夢じゃないらしい。
― 結婚式のために伸ばしてきた髪、さっぱり切っちゃおうかな…。
そんなふうに思ってヘアサロンに行った先週末。結局、未練がましくトリートメントだけを済ませて出てきた私の前に、正輝くんが現れたのだ。
― やっぱり、ショートカットにしてくださいって言えばよかった。
全てを覚悟した私に、正輝くんが微笑む。そして、一枚の封筒をひらひらと掲げて言ったのだ。
「良かった、間に合って。莉乃とは、ピザ食べただけで解散したよ!ほらこれ。莉乃から結婚祝いだって」
目の前で広げられたのは、ガラス食器の作品集だ。私の好きな色やモチーフで、莉乃さんが作家さんに食器をオーダーしてくれるのだという。
「莉乃のピラティスのお客さんに、このガラス作家がいるんだって。萌香はセンスいいから、好きに選んでって言ってたよ」
「え…それだけ?」
「?うん、それだけ。あ、あと、お幸せにって。俺たちの結婚、すっごく喜んでたよ」
…どうして?
どうして?
どうして?
莉乃さんはどうして、正輝くんに“あのこと”を言わなかったのだろう。
それから1週間のあいだ頭を捻り続けて、私が出した答えは、こうだった。
― 莉乃さんに見られたと思ったのは、見間違いだったんだ。
そうに決まっている。ううん、よく考えてみれば、そうとしか考えられなかった。
ふたりが──莉乃さんと正輝くんが本当に親友なら、あの夜、姿を見られた瞬間に連絡が行っていてもおかしくはないのだ。
それなのに、正輝くんはプロポーズをしてくれた。莉乃さんは、結婚をお祝いしてくれた。
そんなのどう考えても、説明がつかない。
どうでもいい男の子と、酔った流れでキスしてしまうくらいの精神状態だったのだ。あの日見た気がする莉乃さんの姿は、罪悪感の象徴みたいな見間違いだったのに決まってる。
― もしかしたら、言わないでいてくれてるのかもしれない。
正輝くんと莉乃さんの会話にわからないところがあると、逐一私に解説をしてくれていた莉乃さんの姿が、ふと頭によぎる。
だけどそんな考えは、すぐに頭の片隅から振り払った。
ありえない。莉乃さんがゆるしてくれるわけがない。
それにそもそもあんなことになったのだって、私ばっかりが悪いわけじゃないはずだ。
― そうだよ。私は悪くない。元はと言えば、親友ごっこして周りに…私とか、秀治さんとかに迷惑かけてる、莉乃さんと正輝くんのほうが悪いんだもん。
自分を納得させながら私は、正輝くんと披露宴で出すお料理の試食を楽しむ。
ホッと肩の荷が下りた気分を噛み締めつつ、それでも私はまだ莉乃さんのことを考えていた。
莉乃さんと、正輝くんと、私の間にあったことを。
莉乃さんと、正輝くんと、私の間にあったこと。
それは、「何もなかった」ということだ。
結婚の報告をして、お祝いをもらって──正輝くんと莉乃さんの間には、本当に男女の感情はないのだろう。
事実、正輝くんにプロポーズをしてもらってから、自分でも呆れてしまうくらい莉乃さんに嫉妬する気持ちは消えてしまっている。
あんなに素敵なプロポーズをしてもらった。ご家族にも優しく受け入れてもらった。誰もが羨むような式場で結婚式を挙げられる。
隣にいてくれる正輝くんの視線はまっすぐ私に向いていて、そしてその視線には、溢れるほどの愛情がこもっている。
それなのに、どうして私は「本当は莉乃さんが好きなんじゃないか」なんて考えてしまったんだろう。
そんなこと、ありえないのに。ふたりはただの、親友なのに。
たしかに、莉乃さんと正輝くんの間には、親密で入り込めないような空気があった。
だけど、あんなにおかしくなるくらい──自分も男友達を作ろうとしてみたり、正輝くんを過剰に束縛したりするほど──疑心暗鬼になる必要なんて、これっぽっちもなかったのだ。
男女の友情にトラウマがあるのは、ただの私の過去だ。他の人にそのまま当てはめる必要はない。
私の左手の薬指には、今も美しいダイヤモンドが輝いている。
まるで、悪い夢から覚めたみたいな気持ちだった。
「やっぱ一流ホテルってだけあって、料理めちゃくちゃ美味しかったな。俺、人の結婚式は料理が楽しみで参加してるところあるから、絶対美味しいところがいいんだよね」
「正輝くんひどーい、ちゃんとお祝いする気持ちで参加しないと」
「それはもちろん、大前提だよ」
式場見学を終え、あれこれと感想を言い合いながら正輝くんの麻布十番の部屋を訪れる。
はじめは、ここをふたりの新居にするつもりだ。忙しい正輝くんの会社からも近いし、私の汐留の会社にもアクセスがいい。
ゆくゆく子どもを授かったりしたら、もう少し私の実家の近くに大きめの部屋を借りて暮らしたりするのかもしれない。
私のお気に入りの2人しか座れない小さなテーブルは、今のうちから少し大きめのものに買い替えてもいいよね。
ホテルからの帰り道、飯倉のインテリアショップを覗きながら、そんな話でも正輝くんとふたり盛り上がった。
「結婚式には、莉乃さんにも来てもらおうね。お願いしたガラスのお皿もせっかくならお見せしたいし、おうちにも来てもらおっか」
「うん。萌香がOKならそうさせて」
結婚が決まって私の精神状態が安定したのは、ひとえに、結婚が“現実”だからだ。
今日の式場見学もそうだけれど、プロポーズから始まる結婚への道のりは、家族の話にお金の話…ひたすらに“現実”が押し寄せてくる。
夢も悪夢も見ているヒマはなく、今週に入ってからは正輝くんとは、新居や家具なんかの具体的な現実の話ばかりをしていた。
今日こうして部屋を訪れているのも、ただいちゃつくだけが目的じゃない。
式場を決定するためにも、お互いの招待客の候補リストを照らし合わせるのだ。
「えっとね、この子は一度紹介したことあるよね?中学の時の親友で…。
あと高校のダンス部の仲間はまとめてみんな呼びたくて…あ、それだけでテーブル2つになっちゃうかも」
相変わらず小さなテーブルに、パソコンとエクセルを印刷した紙を並べる。
正輝くんと肩を寄せ合ってする“現実”の話は、不安なまま紡いでいた夢の話よりもずっと幸せで、私を強くしてくれるのだった。
そう。私は、強くなった。
だから、正輝くんが自分側のリストを出してきた時も、動揺した表情は見せずに済んだ。
「いいんじゃない、部活メンバーでテーブル2つ。少ないくらいだと思う!
俺の方はね〜、一旦候補出してみたけどこんな感じかなぁ」
正輝くんの腕にもたれかかりながら、“友人”と銘打ったリストに並ぶ名前を見る。
そこにはもちろん、「満倉莉乃」の名前があった。
そしてそれ以外にも、たくさんの知らない女性───。
大勢の女友達の名前が、ズラリと並んでいた。
▶前回:「おめでとう」の裏で揺れる心。長年の男友達の婚約に、30歳女が決断したこと
▶1話目はこちら:「彼氏がいるけど、親友の男友達と飲みに行く」30歳女のこの行動はOK?
▶Next:10月27日 月曜更新予定
正輝の女友達は、莉乃だけじゃない。そんな事実を突きつけられた萌香に、正輝は…

