◆前回までのあらすじ
セレブ専業主婦の愛梨、バリキャリ共働き夫婦の由里子は、子どもの習い事が一緒で友人関係に。まりかは、起業家兼ピラティスインストラクターで、由里子とは昔の飲み友達。キャリアも立場も違う2人と仲を深めていく由里子だが、夫婦の“レス問題”で悩んでいて…。
▶前回:「離婚はしないけど、その代わり…」麻布十番在住の妻が、結婚5年でたどり着いた真実とは
離婚という選択:由里子(38歳)大手生命保険会社勤務
雲ひとつない秋晴れの日。
今日は、美桜の保育園の運動会。キャップを被った夫の雅史がスマホを構え、スタート位置の美桜に向かって手を振っている。
― こうして並んでいる私たちは、きっとなんの問題のない夫婦に見えるんだろうな…。
そんなことを思っていると、主任の先生の「よ―いどん!」の合図で、年少クラスの子どもたちが勢いよく走り出した。
「美桜、がんばれ!」
雅史と声が合ったその瞬間、まるで昔の仲が良いふたりに戻れた気がして、胸の奥がきゅっと熱くなった。
けれど、その感覚も長くは続かない。
「ママ〜!パパ〜!」
無事にゴールした美桜に私は手を振り、ハンカチで額の汗を押さえてペットボトルの麦茶を飲んだ。
「吉村さん!美桜ちゃん、すごく速かったですね!」
声をかけてきたのは、美桜と仲の良い女の子のママだった。視線を下げると、ふわりとしたワンピースのお腹がふっくらとしている。
「もしかして…?」と聞くと、「はい、二人目なんです」と満面の笑みが返ってきた。
私も無理矢理に笑顔を作ったけれど、胸の奥にはなんとも言えない感情がじわじわと広がった。
その日の夕方。
私たちは、近所の焼肉店を訪れた。
美桜は大好きなハラミとご飯を交互に食べながら、玉入れやかけっこの話を途切れなく続け、雅史は肉を焼きながら相づちを打っている。
「頑張ったね」と微笑む雅史は、娘を心から愛する良い父親そのもの。
私たちは、家族としてちゃんと成立している。
そのことに安堵と虚しさの両方を感じながら、虚しさの方をレモンサワーで流し込んだ。
帰宅後、美桜は相当疲れたのだろう。髪を乾かしている間も歯磨きの間も、ウトウトと眠そうで、寝室まで抱っこして運ぶとすぐに寝てしまった。
美桜の身長は100cmを超え、体重も16キロになった。いつまでも抱っこをしてあげたいけれど、限界が近づいている。
そう思うと急に寂しさが湧き上がり、私は小さな寝息を立てている美桜の寝顔を、そっとスマホのカメラで撮影した。
不思議と寝顔は赤ちゃんの時から同じだ。そう思ったら妙に安心して、私は「おやすみ」と小声で言ってから髪を優しくなでた。
リビングに戻り、洗い物をしていると「案の定、爆睡?」と言いながら雅史もキッチンにやってきた。
「うん。体力モンスターだと思っていたけど、さすがに疲れたんだね」
私が言うと、雅史は「親たちも応援だけでヘトヘトだったもんな」と言いながら冷蔵庫から瓶のペリエを取り出し栓を開けた。
パーソナルジムに通い出したおかげなのか、雅史の胸板が以前より厚みが増し、腕も太くなっていた。
けれど、その腕に最後に抱かれたのはいつだったかも、今はもう思い出せない。
雅史がソファに座り、スマホをいじりながらグラスに炭酸水を注いだのを見て、私は口を開いた。
「ねぇ、雅史。今日さ、赤ちゃん抱っこしてる人とか、妊娠してるママ多くなかったよね」
「ん?そうだったかな」
“何が言いたいの”と無言で訴える圧力に耐えながら「あのさ…」と切り出してみた。
「雅史は、二人目って考えてる?」
私が言うと、雅史の眉毛がピクリと動いた。
「美桜も弟か妹がいた方が楽しいと思うんだよね。ほら、将来的にもその方が寂しくないし、雅史も3人兄弟だよね」
雅史に断られたあの日から、ギクシャクしている私たち。
よくもまぁ、こんなことを聞けるよな、と自分でも驚いている。
「わかるけど。正直、今は無理だな。仕事も忙しいし、お互いに余裕がないじゃない?」
― やっぱり…。
返ってくる言葉に期待はしていなかった。けれど、どうしていつも数パーセントの奇跡に賭けてしまうのだろうか。
「“今は”って、いつになったら大丈夫になるの?」
「…わからないよ」
「あ、そうか。もう私のこと好きじゃなくなったんだ?」
一瞬、スマホの上を滑らせていた雅史の指が止まる。
「なんだよ、その言い方」
「質問に答えて」
「好きだよ。ただ、昔みたいに“男女”って感じとはまた違うフェーズにいるし、昔みたいには戻れないのは由里子もわかってるだろ。美桜もいるしさ」
雅史はようやく私の目を見た。
「……それでも二人目が自然とできてる夫婦もいるよ?」
「そうだけど…」
「私たち、美桜の親では在り続けるけど。夫婦じゃなくてもいいのかもね」
挑発するように笑ってみせたけれど、心にはドロドロとした黒いものが広がり、そのまま底のない闇に引きずられてしまいそうだった。
雅史はわざとらしく大きなため息をつき、ペリエを飲み干した。
「俺は別れるつもりなんてないよ。離婚なんてしない。美桜がかわいそうだろ」
「……」
離婚したくない理由は、私ではなく美桜。わかっていたけれど、これが現実なのだと思うと胸が痛かった。
これ以上、何を言っても意味がない。そう悟った私は、無言で寝室へ向かった。
◆
「おはようございます」
週明けのオフィスは、いつもよりざわついていた。
私が挨拶しても後輩や部下と目が合わなかったり、笑顔が少し引き攣っている気がしたのだ。
その理由は、PCを立ち上げメールをチェックすると明らかになった。
「あぁ。そういうこと…」
昇進者リストが社内メールで回り、私の名前はなかった。代わりに昇進したのは、独身の後輩。
「おはよう。メールは…見たか?だよな。俺は吉村が適任だと思ったけど。あんまり気を落とすなよ」
成瀬がデスクにやってきて、慰めてくれた。
「全然大丈夫です!…って言いたいところだけど、やっぱりちょっと悔しいですね」
「だよな。まぁ、吉村の良さは俺がちゃんとわかってるからさ。飲みにならいつでも連れてくし…ってこれじゃあ、口説いてるみたいだな。すまん」
成瀬は「コンプラ違反になる前に行くわ」と笑いながら自分の席に戻っていった。
― “口説いてるみたい”かぁ…。
成瀬に特別な感情を抱いていないのは、私が今既婚者で、娘という自分よりも大切な存在がいるからだろうか。
― もしも、独身だったら?
そう自分に問いかけたところで、答えは出ない。私は明日のプレゼンの資料作りに集中した。
昼休み。
私は3人のグループLINEにメッセージを送った。
『由里子:昨日ね、リアルに離婚したらどうなるんだろうって考えてみたんだけど。私意外と平気かもしれない』
いつからだろう。私たちは毎日のようにここで近況報告や、ちょっとした会話をするようになった。
『どうしたの、急に。え?離婚するの?』と、すぐに愛梨から返信が来る。
まりかは仕事中なのだろう。既読はつかない。
『ううん!でも、その選択肢もあるなぁって冷静に思えたんだよね』
『そっか。でも、由里子ちゃんは自立してるからどんな未来が来ても大丈夫だよ♡』
愛梨の言葉に励まされながら、私は自分で作ったお弁当を食べ始めた。
窓の外には、休日の運動会と同じくらい澄んだ青空が広がっている。
専業主婦で子どもとの時間が私より多い愛梨。得意なことで起業してエネルギッシュなまりか。
彼女たちを羨んだり比較したりしないで、自分で自分を幸せにしていく。
それは簡単なようで、難しい。
自分が満たされていない時は特に、誰かと比べて不安になってしまうから。
けれど、それを自覚できたことが大きな一歩だ。
私が本当に離婚をしたら、環境を整えるのに時間がかかるし、愛梨だって仕事を始めたら今より忙しくなる。まりかもこの先結婚出産しないとも限らない。
人生における転機は人それぞれ。
これまで仲が良かった友達と会わない期間があっても、それは仕方のないこと。
縁のある者同士なら必ずまた会うようになる。
だからこそ、私は今楽しい時間を共有したり支え合える、愛梨やまりかとの関係を大事にしたいのだ。
そんなことを思っていると、雅史からLINEがきた。
『まさし:今週末、実家に美桜を預けて久しぶりにふたりで夕食どう?』
関係修復を期待させるような誘いに数秒迷ったが、私は『いいよ。どこ行く?』と返信をした。
▶前回:「離婚はしないけど、その代わり…」麻布十番在住の妻が、結婚5年でたどり着いた真実とは
▶1話目はこちら:「男の人ってズルい…」結婚して子どもができても、生活が全然変わらない
▶Next:10月29日 水曜更新予定
まりかは颯斗との関係をはっきりさせることに…

