◆“反ワク”という言葉が遠ざけてしまうもの

大西:コロナワクチンが善なのか悪なのか。この作品で二項対立的にジャッジしようという考えは、全くありません。実際、この問題に取り組む医師や研究者の方々において、全く同じ見解の人はいないと思います。
「はい、これが答えです」というような絶対普遍の正解は、科学ではありません。反証されることに対して開かれていることこそが科学の本質であり、それはコロナワクチンにおいても変わらないでしょう。だからこそ、僕にとっては虚心坦懐に事実を記録し続けることが大切です。そして、医師や研究者の方々は専門的な見地からさまざまなデータを検証して論文を書かれています。
立場や考えが違っても議論をし続けるべきなのですが、それを妨げる象徴的な言葉が「反ワク」だと思います。本当に危険な言葉です。言葉自体にネガティブなニュアンスを含む、強烈なレッテルではないでしょうか。
哲学者のヴィトゲンシュタインは「私の言葉の限界が私の世界の限界だ」と言いましたが、「反ワク」という言葉は、その先の検証や議論を完全に閉ざしてしまいます。
ある日の撮影現場で、福島医師や他の医師らが「反ワク」という言葉についてざっくばらんに話し合っているのを見ながら、「あぁこういう場面を撮るために取材をスタートしたのだ」という気持ちになりました。多くの人たちには聞こえて来ない会話ですよね。
◆疑問を感じつつも流されて「打った」

大西:安全性について多少の疑念を持ち、自分なりに論文を読んだり調べたりしましたが、今思えば十分ではなかった。政府や厚労省、専門家の意見から、「まあ大丈夫だろう」と軽々しく信じたと思います。
自分は会社の職域接種のきっかけを作り、接種の取りまとめ役を担いました。今考えると恐ろしいと思うのは、心の中で1%おかしいと思っていても、現実に流されて自分に対しても他者に対してもブレーキを踏めなくなるということです。同調圧力に負けたというのか、思考停止になってしまったというか…。
当時は会社の取締役の1人だったこともあり、「コロナ禍で経営はどうなってしまうのか」という切迫感がありました。早くロケを開始しないと、という気持ちからコロナワクチンが救世主に見えていた気がします。「自分の身体にとって、同僚の誰かの身体にとってどうか」と考え抜くのではなく、「会社のために、社会のために」と、言わば主語が大きくなっていきました。多くの人がワクチン接種をするほど感染症は収まるはずだと、盲目的に自分の思考が傾いていった感じを思い出します。自分の浅はかさを、今でも強く悔いる気持ちがあります。

