◆初の著書『半分論』に書かれていたこと

前述した「スターオーラよりも気さくでおもろいお兄ちゃん」の空気感があるのは、村上の中に存在する“気恥ずかしさのようなもの”のせいかもしれない。
それは、今年出版された初の著書『半分論』(幻冬舎)にも現れているようにも感じられる。
本書は小説でもなければ自叙伝でもない、「あえて言うならば、僭越ながら僕なりの哲学書とさせて頂けたらと思います」(出版コメントより)と位置付ける。
自身の経験、挫折や葛藤、それらを示しながら、決して上から語らない。ゴリゴリのアイドルでなく、もちろんお笑い芸人でもない。
そんな自身の立ち位置をよく把握している、彼なりの謙虚さも詰め込まれているように感じられる。
それは、「様々な変化が著しい時代だからこそ、どんな状況にも活用出来る考え方の羅列になっております」(同)という考えに基づいたもので、大変な時代だからこそ、長い年月のさまざまな波を柔軟に乗り越えてきた、STARTO社の長い歴史の中でいそうでいない独自性を持った存在だからこそ語れる「村上信五的なもの」がそこにある。
◆「考える必要がない存在」であるすごさ
深く考えたことがなかったということは、前述したように彼が長いキャリアの中でなんだかんだ柔軟に、そしてそれをごく自然に波を乗り越えてきたから。「ジャニーズなのに」というよりも「ジャニーズだから」ということすら気にせず、つまりそういう意味で考える必要がないような、あまりにも自然体での空気を醸し出していたから。そういうことなのかもしれない。
深く考えたことがない村上信五のことを考えてみたら、そのすごさ、唯一無二さを実感してしまった。
感心するとともに、怒られそうだがどこかくやしいなという気もする。それに対して、
「そんなたいそうなもんでもないやろ」
そんなふうに返されるような気もする。自分もそう思う。それが全然失礼なことと感じない。それこそが、村上信五という存在が放つ魅力だといえるだろう。
<文/太田サトル>
【太田サトル】
ライター・編集・インタビュアー・アイドルウォッチャー(男女とも)。ウェブや雑誌などでエンタメ系記事やインタビューなどを主に執筆。

