走る速さを競うトラック競技は「位置について、用意、スタート」の合図で始まります。0.1秒以下のタイムを争うアスリートは、審判の声やピストルの音に細心の注意を払い、最高のスタートを切るために日々練習を重ねています。
しかし、聴覚障害のある選手には、音の合図は聞こえにくかったり、聞こえなかったりします。これまで聴覚障害のある選手たちは目視でピストルを確認し、周りの選手の動きに合わせスタートを切っていました。聴覚障害のある選手が出遅れることは「当たり前」とされてきました。
日本のこの状況を変えたのは、東京都立中央ろう学校の教諭として20年以上陸上競技に携わり、一般社団法人日本デフ(※)陸上競技協会(外部リンク)の事務局次長も務める竹見昌久(たけみ・まさひさ)さんです。
- ※ 「デフ(Deaf)」とは、英語で「耳が聞こえない」という意味

竹見さんは2011年頃からスタートの合図を光で知らせる「スタートランプ」の開発・普及を日本で始めました。この「スタートランプ」の仕組み自体は、2005年のメルボルンデフリンピックにて正式採用されていましたが、日本での普及は進んでいませんでした。しかし、竹見さんの活動もあり、2025年11月に開催される、聴覚に障害がある選手のスポーツ大会「東京2025デフリンピック(外部リンク)」にも採用が決まっています。
11月に日本で初めて開催される「東京2025デフリンピック」を前に、竹見さんに、多くの人がこういった課題に気づき、自分ごととして捉えるために必要なことについて、お話を伺いました。
聴覚に障害があっても平等にスタートを切れる
――「スタートランプ」はどういう機器なのか教えてください。
竹見さん(以下、敬称略):審判の声やピストルの音によるスタートの合図を、光で選手に伝える機器です。スターターはランプを点灯させるボタンとピストルを持ち、「位置について」で光を赤に、「用意」で黄色に、「スタート」でピストルが放たれると緑の光が点灯し、スタートを正確に伝えることができます。
聴覚障害のある選手が、聴者(耳の聞こえる人)の選手と混合で競技を行う大会の一部では、この「スタートランプ」が採用されています。これがあれば、全ての選手が平等にスタートを切ることができます。
現在はスポーツ庁の協力のもと、「東京2025デフリンピック」に向けて講習会や体験会など全国で研修・普及活動を行っています。

――なぜこの「スタートランプ」を日本で開発・普及をさせようと考えたのでしょうか。
竹見:指導していた生徒の言葉がきっかけでした。まず第一に、トラック競技はスタートが競技の命運を分けます。スタートが遅れるといい結果を残すことは難しくなりますし、フライングをすればその場で失格となってしまいます。これまで聴覚障害のある選手は音の合図を聞き取ることができず、出遅れることが当たり前になっていました。
そんな中、生徒が高校3年を締めくくる大切なインターハイに出場しました。生徒自身も大会に向けて必死に努力を重ねていたのですが、スタートの合図が聞こえず、いい結果を残すことができませんでした。
その後、生徒が涙ながらに「こんなに頑張ってきたのに聞こえなかったら意味ないじゃん」と打ち明ける姿を見て、私は指導者として何もしてあげられていなかったのだと強く実感しました。そこから聴覚に障害がある競技者が、平等にスタートできる機器を日本で開発・普及させようと決意したんです。
スタートランプの概念自体は、2005年のメルボルンのデフリンピックで使用された前例があり、そちらを参考に開発を進めました。

――そもそも、「スタートが遅れる」ことが当たり前となっていたのはなぜでしょうか。
竹見:世間の認知が低いことも理由の1つですが、聴覚障害のある生徒への指導の仕方も要因としてあったのではないかと感じます。当時は「一生懸命、周りを見なさい」「聞く努力をしなさい」「自分で工夫して乗り越えなさい」といった、スパルタ的な価値観が横行していました。
私自身も、当時は彼らの抱えるハンディキャップをすごく軽く考えていて、「補聴器をつけなさい」などと言ったこともあります。補聴器は周囲の音を増幅させて音を聞き取りやすくする機器ですが、増幅された観客の声や風の音などからスタートの音を聞き取るのにも、やはり限界があります。難聴の種類によっては、補聴器ではどうにもならない人もいます。
生徒たちにとっては酷な状況だったはずです。当事者の抱える悩みへの理解や寄り添いは、まったく足りていませんでした。「スタートランプ」が、あらためて聴覚障害がある人々への理解を助けるものになればという思いもあります。
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選手に希望の光と言われた「スタートランプ」。受け入れられるまでの道のり
――「スタートランプ」が導入されて、選手たちからはどのような反応がありましたか。
竹見:とても喜んでくれました。今までは音が聞こえない分、周りの選手たちに合わせてスタートするしかありませんでしたが、視覚でタイミングが分かるので、思い切ってスタートを切ることができます。中には「希望の光」とまで言ってくれる方もいました。
――選手たちのモチベーションも大きく変わりそうですね。
竹見:はい。今までは耳が聞こえないためにトラック競技を諦め、やり投げや走り幅跳びといったフィールド競技を選ぶ選手が多かったようです。ところがデフリンピックの男子100メートルで金メダルを獲得した佐々木琢磨(ささき・たくま)選手に会った時に、「最近フィールド競技の選手が減ったんだよね」と言われました。なぜかと尋ねたら「『スタートランプ』があるからだよ」と話してくれて、すごくうれしかったですね。選手を取り巻く状況は大きく変わったのだなと感慨深かったです。
――「スタートランプ」の開発や普及を進めていく上でどのような困難がありましたか。
竹見:教育や競技の現場に受け入れてもらうことが大変で、かなりの時間を要しました。「スタートランプ」の普及活動で10年以上全国を回ったのですが、訪れた先で審判の方に「こんなのいらないでしょ」と言われたことを今でもはっきりと覚えています。
その理由を聞くと「私の知ってる選手はちゃんとスタートできていたよ」ということでした。ろう学校の先生方からも「こんなものを使うな」といった意見をいただきました。
――反発があったことが意外です。
竹見:私も現場で指導していた身として、新しい機器への抵抗感は分からなくもなかったのですが、聴覚障害のある人への理解は、教育者でさえまだまだなのだと実感しました。
聴覚障害のある人の聞こえ方はさまざまです。全く聞こえない人や、少しだけなら聞こえる人もいますし、低音は聞こえるけど高音は難しいなど、人それぞれ聞き取れる音の範囲も変わってきます。一括りにしてしまうのは危険ですし、そうした初歩的なことをその後の研修会で丁寧に説明していきました。
この現状を多くの人に知ってもらうために、現在も普及や啓発活動を続けています。