◆ガザで飢餓を体験した元人質の証言

2年間にわたるイスラエルとハマスの紛争が一旦「うちやめ」となった。懸案だったイスラエル人人質も、生存者20人は全員帰還できた。この2年間でガザに関して大きな話題となったのが「飢餓」である。そこで今回は、実際にガザで飢餓を体験した人物の証言を紹介したい。
彼の名前はエリ・シャラビ。1972年テル・アヴィヴでイエメン系とモロッコ系の両親のもとに生まれた。それもあり、アラビア語も話すことができる。10代半ばにガザとの境界線から5㎞程度のキブツ・ベエリに移り住む。同地で英国人のリアン夫人と出会い、結婚。ノイヤとヤヘルの2人の娘に恵まれた。兄ヨッシも同キブツに移住、家庭を築いた。約1000人の共同体で、2023年10月7日まで30年近くそういう穏やかな日々が続いていた。
そして、あの日彼は兄・ヨッシとともに人質となり、ガザに連行され妻子と離れ離れになった。2025年2月8日に停戦の一環で釈放され、帰還した。その後は残された人質のため全世界で啓発活動を続けている。そして、世界各地のユダヤ人コミュニティが少しでも彼の支えになろうと会合を開催している。
今回の会合の場所は、主催者および本人の強い意向もあり、公表できない。現在筆者は国外滞在中だが、現実問題としてシナゴーグやユダヤ人地区で車が焼き討ちされ、イスラエル料理レストラン襲撃も発生しているからだ。したがって、チケット購入者のみに開催日直前に知らされ、当日も厳重な手荷物検査と尋問が行われた。
◆ガザ民間人の憎悪を即座に悟った
「朝6時29分、イスラエルの国中に警報が鳴り始めました。私は娘2人を叩き起こし、シェルターに入り、約4時間籠りました」イスラエルでは、ミサイル飛来に備え国中のありとあらゆる場所に防空壕が完備されている。警報が鳴るたびそこへ入るのが国民全体の常識となっている。ただし、今回このシェルターは役に立たなかった。「空からのミサイル」のみ想定していて、カギがないのだ。地上の侵入者があるとは想像すらしていなかった。
「10:45ごろ、敵がアラビア語で叫びつつ侵入し、簡単にドアを開け、私たちを引きずり出しました。リアンと私は、武器もありませんでしたから戦わないと決めていました。妻と娘2人は英国籍ですから、イギリスのパスポートが助けになってくれると信じていました。生きて帰ってくると娘たちに約束して私はガザに連行されました」
最初に連行された先は、モスクだった。
「モスクから引きずり出されると、無数の大人と子供たちが私を靴裏で叩こうと押し寄せてくるのです。ガザの民間人が私たち人質に襲いかかろうとして、ハマスが制止しようとする捻じれ現象が起きていました」
アラブ世界で、靴裏で人を叩くのは最大の侮辱である。もっと言うと、靴裏を見せるだけで十分な侮辱だ。アラビア語も解すシャラビは言われるまでもなくこのガザ民間人の憎悪を即座に悟った。そして、ハマスはモスクも軍事施設として転用していた。
「その後連れていかれたのは民家でした。そこで私は52日間拘束され、ずっと腕は背中の後ろで縛られ、足も鉄の鎖で拘束され、まともに眠れませんでした。結局491日間、足の鎖は一瞬たりとも外されませんでした」
聴衆が息を呑むのがわかった。
「外から聞こえるIDF(イスラエル国防軍)の攻撃音だけが私の希望でした。11月27日、49日目に停戦と人質交換が実現しましたが、私は解放枠に入れませんでした。代わりにモスクへ連行され、そこから地下につながる梯子を下りるよう強要されました。一度拒絶しましたが、頭に銃口を突き付けられ、娘との約束もあり、私はここで生を選びました」

