◆大阪「ミクニ プリヴェ」失敗、最大の理由

じつは成功例と同じくらい失敗もいろいろあるのだが、僕は逃げ足が早いから、ズルズルと負債を抱えるようなことにだけはならないですんでいる。だから失敗が目立ちにくい。ここではその例を1つだけ書くことにする。
2002年、大阪の梅田に「ミクニ プリヴェ」という店を開いた。
知り合いを通して声がかかった仕事で、梅田の一等地にある複合商業ビルへの出店依頼だった。ものすごくおしゃれでスノッブなビルをつくりたいから、三國さんの力をどうしても借りたいんだと熱心に説得されたのだ。
大阪は飲食店の激戦区で新規参入は難しいと言われる。でも、「食い倒れ」の街・大阪でチャレンジしたい、という思いが僕にもあって、やってみようという気持ちになった。
今思えば、この時点ですでにちょっと慎重さを欠いていたようにも思うのだが、とにかく僕は引き受けた。そして、リサーチをかけて、客層を想定し、どんな店にするかを決めていった。
エントランスのデザインは思い切りかっこよくスタイリッシュに。そして、エントランスを入ってすぐの右には回転寿司「三九二」だ。中央はオープンキッチン、周りにテーブル席を配し、ここでおしゃれなフランス料理店を出そう。
◆「参謀がいない」のが大きな欠点
「あー、しくじった」と思ったのは、オープン直後、店内をひと目見てお客さんがぜんぜんリラックスできていない感じが伝わってきたからである。おしゃれすぎたのだろうか? 入口からして、なんだかみんな入りづらそうだった。
そして中に入るやいきなり回転寿司である。なんでやねん? そんなん食いたくないし、と避けて左に回ると、制服の人が気取って「いらっしゃいませ、食前酒はなにになさいますか?」と来るのである。
そして、なによりも問題だと感じたのは、ビルの下層階のファッションフロアに入っているテナントの客層が、僕のつくった店のそれよりも、はるかに若くカジュアルであったこと。エレベーターに乗り合わせたら、どちらのお客さんにとっても居心地が悪そうだ。
僕が甘かった。
リサーチが甘かったのではなく、僕が大阪の人を甘く見ていたからちゃんとリサーチができていなかった。いや、甘く見ているつもりはまったくなかったが、数字で人の心がつかめるはずもなかったのだ。
そもそもあそこに回転寿司をもってきてなにをやりたかったのか。誰に来てもらいたかったのか。そういう中途半端なコンセプトだから、大阪の人にそっぽを向かれてしまったのだ。
結局1年足らずで僕は「ミクニ プリヴェ」を畳むことになった。
あのとき、もしもぼくに大阪出身の頼れる参謀がいたら、数字ではわからないところを参謀の感覚で補ってもらい、もう少し大阪人の心に添った店がつくれたかもしれない。
だが、なにを隠そう僕には参謀がいたためしがない。「参謀ができない」のは、「短気である」と並ぶ、僕の大きな人格的欠点なのだ。なにしろ僕は店で使う爪楊枝一本でさえ人任せにできないタイプである。
そして、そのためにこれまで何度も失敗をくり返してきた。
今振り返っても、あのときあいつに任せていたら、成功していただろうなという店が何店もあるし、あそこで自分がしゃしゃり出なかったら、閉じなくてもすんだかもしれないという店もある。
誰にも頼れないことが自分の欠点であるとよくわかっているけれども、どうすることもできない。「ミクニ プリヴェ」は、一人で決めて一人で失敗したというわけなのだ。
〈写真/キッチンミノル〉
【三國清三(みくに・きよみ)】
1954年北海道増毛町生まれ。中学卒業後、札幌グランドホテルや帝国ホテルで修業し、駐スイス日本大使館料理長に20歳で就任。その後名だたる三つ星レストランで腕を磨き、8年後に帰国。85年、東京・四ツ谷に「オテル・ドゥ・ミクニ」を開店。予約の取れないグラン・メゾンとなる。世界各地でミクニ・フェスティバルを開催するなど国際的にも活躍する一方で、子どもの食育活動やスローフード推進などにも尽力している。2020年にYouTubeチャンネルを始め、登録者数54万人の人気チャンネルになり、Instagram18万人と合わせると72万人を超える(25年8月現在)。22年、惜しまれながらも「オテル・ドゥ・ミクニ」を閉店、25年、カウンター8席の「三國」を開店。

