港区・西麻布で密かにウワサになっているBARがある。
その名も“TOUGH COOKIES(タフクッキーズ)”。
女性客しか入れず、看板もない、アクセス方法も明かされていないナゾ多き店だが、その店にたどり着くことができた女性は、“人生を変えることができる”のだという。
タフクッキーとは、“噛めない程かたいクッキー”から、タフな女性という意味がある。
▶前回:恋を長続きさせるために、絶対にやってはいけないコト。わかっているのに、28歳女はつい…
Costomer 6:ミチの元恋人、柏崎メグ(35歳)
BAR・TOUGH COOKIESの店長・ともみが、「ミチの眼の下の傷は自分のせいだ」と言ったメグに、どう問いかけるべきか迷っていたとき——来客を知らせる音楽が鳴った。
インターフォンのモニターに、画面いっぱいの顔。ど迫力に気圧されるように、ともみは即座に解錠ボタンを押した。ミチの傷の理由、その詳細を聞けぬまま、続きは来週!と断ち切られてしまったかのような絶妙なタイミングでの、西麻布の女帝の登場だ。
「おや、待たせちゃったかね」
「いえ、私が少し早く来たので。光江さんはジャストです。正確には…1分前、ですね」
光江への敬意から立ち上がるメグを横目に、ともみは腕のアップルウォッチを見た。19時29分。誰をどれだけ待たせても文句を言われそうにはない存在感を放ちながら、光江は約束の時間に遅れることがない。
夜の西麻布ではドレス姿が定番の光江だが、今日は珍しく、太もも丈ほどの、体のラインを拾わぬ濃紺のシルクシャツに同素材のパンツを合わせたセットアップスタイルだ。首元には、チョーカーのような太めのゴールドチェーンと、大きなエメラルド色の石(きっととんでもない値段のはず)がついた胸元ほどの長さのネックレスが重ね付けされている。
いつも通りに華やかに巻かれたショートカットのグレイヘアーをふわふわと揺らしながらカウンターに近づいてきた光江から、紙袋を受け取ったルビーが「あれれ?」と、ふざけた声を出す。
「光江さん今日、なんかちょっとだけ、顔薄くない?」
遠慮なしに放たれた言葉に、光江がにやりと笑った。
「今日の紅が、男にもらったものだからかねぇ」
「確かに!今日のリップ、ブラウン系で、いつもの真っ赤!って感じじゃないもんね。ね、男って、もしかして新しい彼氏ぃ?」
きゃ♡とはしゃいだルビーの反応に、ともみは思わず「え?」と声が出た。新しかろうが、古かろうが、か、彼氏?西麻布の女帝に!?
「なんだい、ともみ。アタシに色恋の話があったらおかしいのかい?」
「い、いえ、そんなワケでは…」
「あれ?ともみさん知らないのぉ?光江さんってば、昔も今も爆モテだし、彼氏になりたいって人、め~っちゃくちゃいるんだよ」
「ルビー言っとくけど、アタシは彼氏だとか彼女だとか、そんなカテゴライズに興味なんてないんだよ」
ひゃーかっこよぉ♡とさらにテンションを上げたルビーに突っ込みたいことは沢山ある。ともみは光江と出会ってもう3年以上が経つが、光江の色恋話など一度も聞いたことがないし、その気配を感じたこともなかった。
「光江さんの場合は、彼氏っていうより信者って感じになりそう。つまり教祖さま?」
メグの発言に光江が、「アンタも大概、無遠慮な女だね」と呆れたように溜息をついた。ついさっきまで怒られるかもしれないと言っていたのに、メグと光江は随分親しい仲のようだ。
光江を前にしても動じないメグとルビーは気が合いそうだ。笑いあい、ハイタッチした2人に、光江はもう一度ため息をつくと、まあいいよ、と続ける。
「その紙袋、お土産。アンタたちがお腹空かせてたら、と思って買ってきたやつだから」
「もちろん空いてる、空いてま~す!」
そう言うと、ウキウキと紙袋を開き、上品なからし色の風呂敷に包まれた箱を取り出したルビーに、ウソでしょ!?あなた、ついさっき、サーターアンダギーを10個間食した人ですよね!?と、ともみはぎょっとする。
箱の中には、ひと口サイズが有名な稲荷寿司が入っていた。ふわふわとした揚げにくるまれた酢飯に混ぜられているのは、くるみや、鶏そぼろ、ごま、明太子など。
舞台やコンサートの前にメイクを済ませた俳優たちでも、大きな口を開けずに食べられるサイズは差し入れにもいいし、深夜に小腹が空いた時にも丁度いいのだと光江のお気に入りなのだ。
「じゃあ、この稲荷寿司に合いそうなカクテルを作ってもらおうかね。全員分同じでいいよ。今日はアタシのオゴリだ」
光江の何気ない“合うカクテル”という注文に、腕が試されるのだと背筋が伸びたともみとは対照的に、いそいそと稲荷寿司を取り分けていたルビーは、オゴリ、いえーっす!と鼻歌まで歌い出した。
― 稲荷寿司に合うカクテル…か。
白ワインを選ぶ方が安全だが、カクテルをというオーダーだ。カクテルは工夫次第でどんな食べ物にでも合わせられるものだと、ともみはミチに叩き込まれてきた。
甘い揚げと酢飯の酸味。そして今日光江が選んできた味は、くるみと鶏そぼろ。奇をてらわずシンプルな作りにしようと、ともみはライムを2つ取り出し、それぞれ半分に切った。
氷を入れたロンググラスに、ライム半分を絞り切り、その後ウォッカとソーダを、静かに丁寧に注ぐ。そうすることでグラスの中に“層”が生まれ、口にした時に、その層が舌の上で順番に現れ。つまりそれぞれの味をしっかりと味わうことができるのだ。
今夜はともみもルビーも座って飲むよ、と、光江は、長方形のローテーブルをソファーがぐるりと囲んだ席に、ルビーへ稲荷寿司を運ばせた。
長辺の両側に2人掛け、短辺の両端に1人掛けが置かれた6人席に、ともみが4人分のカクテルを運んでいくと、光江はその2人掛けの片方を、ゆったりと1人で独占していた。
「乾杯の数だけ、幸せになれるからね」と、グラスを全員に促したあと、1口、また1口とゆっくりとカクテルを味わった。そしてグラスを静かにテーブルへ戻すと、ともみに視線を向けた。
「ライムリッキーか。意図は?」
メグとルビーがそれぞれ1人掛けを選んでいたため、光江の正面に座るしかなかったともみが、それに応える。
「テーマは“整える”です。まず、揚げとそぼろの甘辛さと油を考えました。それぞれの強い味のバランスを整える感覚というか…ウォッカとソーダで甘辛さと脂っぽさを溶かして融合させる、そしてライムの酸味が酢飯と共鳴してまとまる、そんなイメージです」
「くるみは?」
「くるみのことは正直に言って考えませんでした。くるみならどんな酒でも邪魔にならないかと」
マリアージュのカクテルを考える時、まず守るべきテーマを決める、ということはミチに教わった。一度に出る食材が多い時、最も強い食材を軸に考えていく。全てに合わせようとすると味がぼやけてしまい、失敗するのだと。
「正解。何もかもをと欲張りになれば、一番大切にするべきものを失くしてしまう。それは人生も同じさ。だろ?メグ」
突然の名指しにメグはグラスを持とうとしていた手を、ルビーは2つ目の稲荷寿司に伸ばした指を、それぞれ止めた。
「やっぱり、その話ですよね」
と、メグがふぅ~と呼吸を整えるように息を吐き出してから続けた。
「光江さんがお酒をおごってくれるっていうの、怪しいと思ったんですよ」
「アタシをケチなババア扱いする気かい?」
「だって、おごられてる光景しか見たことないですもん。Sneetで、“西麻布の女帝に一杯おごる”っていうのが、光江さんに話を聞いてもらえる、お悩み相談料のようなものなんですよね?」
メグがいたずらっぽく笑うと、光江も口角を片方だけ上げた。確かに——Sneetで光江に相談にのってもらいたければ、光江が指定した酒を一杯おごること。10代の恋のお悩みから、国を動かす極秘情報まで、これが一律のルールになっている。
けれど、ともみが見ている限り、光江は相手に合わせて酒を選んでいる。相手が若い大学生であれば1,000円台のお手頃なカクテルを。裕福な社長であれば遠慮なく、希少なワインをグラスで飲むために開けたりする。
— まあ会えたところで、光江さんの気が向かなければ相手にもされず、帰っていく人も多いんだけど。
光江は携帯電話を持たず、Sneetに現れるペースも決まっているわけではない。待ち伏せという作戦に出たとしても、そんな客がいる時には不思議と絶対に現れない。(たぶんミチが光江に知らせている)
つまり偶然Sneetで遭遇するしかその機会を得る方法はない。だから、“西麻布の女帝”に悩み相談ができた人の未来は安泰、夢が叶い生涯の幸せが約束される——などという都市伝説めいたものが出回るほどの希少価値があるのだ。
ともみでさえ恐れ多くて、そうそう頼めない“女帝の相談室”。でも久しぶりに相談したいことがあるんだけどな…などと思っていると、「そういえば、ともみ」と光江に名を呼ばれた。
「アンタついに、友坂んとこの坊ちゃんとうまく行ったんだって?」
友坂んとこの坊ちゃん——つまり大輝の父親と光江は、大輝が生まれる遥か前からのつき合いらしく、Sneetに通い始めて何年も経った今も、光江は大輝を茶化すことが楽しいのか、その名を正しく呼ぶことがあまりない。
「はい、なんとか」
「残念だねぇ。アタシはいっそ、ミチとくっついてくれたほうが面白かったんだけど。ミチもアンタのことは気に入ってるみたいだしね」
突拍子もない!と驚き慌てたともみはメグを見た。メグはニコニコとその表情を崩してはいなかったけれど、先日見た2人——メグとミチの間に流れる空気はどこか特別で、その関係が過去のものだとは思えなかったから。
「あれ?まさか今日は、姑がお嫁さんを選びますよ、って話なの?」
空気を読めないというより読まないルビーの悪びれない声を、光江がギロリと睨む。
「誰が姑だよ。そもそもアタシは誰の母親でもないだろうが」
でもまぁ…と、光江はメグとともみを交互に見てから続けた。
「ミチを幸せにしてくれる嫁はどっちだと聞かれたら、間違いなくともみだと言うだろうね。
メグ、アンタじゃミチを幸せにできないよ、なのに今さら、どういうつもりで捨てた男に頼ってるのかね。アンタに捨てられたあと、あの子がどうなったのか——今まで知ろうともしなかったくせに」
「どうなった、って…ミチに何かあったんですか?」
メグの顔がわかりやすく強張ったが、光江はその質問には答えず、ふん、と鼻を鳴らしてから続けた。
「アタシはいずれ、あの店をミチに譲る。きっとそう遠くない未来にね」
「え?光江さん、引退しちゃうの?」
間髪入れずにそう聞いたルビーの手には3つ目の稲荷寿司。そして光江の返事を待たずに口の中に放り込んだ。よくもまあ、このシリアスな会話の最中に食べる気になれるものだと、もぐもぐと飲み込んでいくルビーの強靭なメンタルに敬服しながら、ともみは“西麻布の女帝”の引退予告に動揺していた。
— 光江さんはこの街に…いつまでもいてくれるものだと、思いこんでた。
不安がよぎったともみを安心させるかのように、光江は、「今すぐってことじゃないよ」と少しだけ微笑んだ。
「ただ、流石のアタシも不老不死ってわけにはいかないし、引き際を見極めて、潔く手放さなければ、大切な場所を守れないのさ。今、ミチに受け渡す準備を少しずつ始めてるところなんだ。だからメグ…アタシの大事な後継者をいつまでも都合のいい男として扱うつもりなら——それなりの覚悟はしてもらわないとね」
メグを見据えた光江の迫力に、ぞくり、と、ともみの背筋に冷たいものが響いた。流石のルビーも、食べる手を止めて固まっている。けれどメグだけは…静かに目を伏せてから、一拍ののち、恐れのない視線を光江に戻した。
「都合のいい男だなんて思ったことは、誓って一度もありません。でもあの時は…自分がどれだけずるいことをしているか承知の上で逃げました。ミチなら絶対に私を許して受け入れてくれる。そんな驕りがありました。いや、きっと今もあるんだと思います。
ミチには本当に助けてもらってばっかりで…申し訳ないです」
「光江さんの大切なミチを…本当にすみません」と、メグは深々と頭を下げ、どんな罰を受ける覚悟もできていると示すかのように、もう一度まっすぐに光江を見つめた。西麻布の女帝に凄まれれば、裏社会の強者たちでさえ怯むと言われているのに。仕事柄の強さなのだろうか。
ともみは大輝に、ミチの元恋人は世界を飛び回るジャーナリストなのだと教えてもらっていた。命をかけて修羅場を潜り抜けてきた経験値と度胸が違うのかもしれないと、ともみは感心したが、光江には全く響いていないようだった。
「アンタの極めて自己中心的な懺悔なんてどうでもいい。聞きたいのは、今日までの過去の話じゃなく、これからのことだ。ミチとの関係をどうするつもりか決めてくれ、って言ってるんだよ」
ともみは驚いた。いくらミチが光江にとって大切な後継者だったとしても、他人の恋愛事情に介入する光江を初めてみたからだ。それにその強い口調が、どこか光江らしくないと違和感もあった。
「ミチのことがずっと…大好きです。この世界で、たった一人の大切な人だという確信もあります。でもどうしても……私は自分の仕事を捨てることができません。世界中で理不尽な状況と闘い続けている人がいて、そんな人達を知ってしまったなら、見過ごすことはできないんです」
「だから、助けにいく?アンタの取材のせいで行方不明になった女の子を探し出すことがアンタの責任だと?」
やっぱり光江さんは全てご存じなんですね、とメグが目を伏せて呟き、光江がまた鼻で笑った。
「アンタは今、理不尽な状況で苦しむ人を見過ごせないと言った。でも10年前、アンタのすぐそばにも“理不尽に苦しんだ男”がいたはずだよ。心から愛していた女に、大好きだからこそ別れたいと、理不尽に、一方的に捨てられた男が」
メグが虚をつかれたように目を見開く。
「せめて大嫌いになったと突き放して別れるのが礼儀だろ。なんだい、大好きだからこそ別れるっていうのは。そのせいでその哀れな男は——ミチは、想いを断ち切れないままに長い時間を過ごすことになった。アンタは別れ際の“大好き”って言葉でミチに呪いをかけたのさ。それは理不尽だとは言わないのかね?
自分が愛した男すら幸せにできない女が、世界の幸せのために闘ってるつもりだってことがおかしくて仕方ないよ。メグ、アンタが高い理想を掲げるのも、そのせいで自分が苦しむのもアンタの自由だ。でもうちの大事な大事な忠犬を過去に縛り止めるのは、金輪際やめてくれ」
黙ったまま唇をきつく噛みしめたメグを気にせず、光江は、稲荷寿司の鶏そぼろ味を、ポンっとその大きな口に放り込んだ。そしてしばらく咀嚼したあとで、ライムリッキーを一口含む。
「うん、氷が解けても悪くないマリアージュだ。100点満点だとは到底言えないけど、炭酸が抜け始めてもライムとウォッカが塩梅良く仕事して、油揚げと鶏そぼろに爽やかな味をのせてる。整理するっていうテーマは成功してるよ」
自分に移った視線に、ありがとうございます、とともみが小さな声で答えると、光江は再びメグを見据える。
「カクテルの味を決める極意は、何を足すかではなく、何を手放すかだとアタシは思ってる。その見極めを間違えたなら、味は崩壊する。それは人生も同じ。それをミチには教え込んだはずなんだけどねぇ」
光江に射貫かれたメグは、何かを言おうとしたけれど結局黙ってしまった。光江に指示されたルビーが稲荷寿司が入っていた紙袋を持ってくると、光江はそこから大判の茶封筒を取り出し、テーブルの上をメグの方に滑らせた。
「…なんですか…?」
弱々しく聞いたメグに、光江が「開けな」とだけ告げた。
メグはおずおずと、封筒の中から数枚の紙を取り出した。ともみの位置からでは内容は見えなかったが、裏面から透けたその文字は日本語ではなく、外国語のようだと感じだ。
「これ…まさか…リリアがどこにいるのかわかったってことですか…?」
興奮を含んだメグの声が震えた。光江はどうでもいいことのように、そうだけどさ、と続けた。
「その子がどこにいるのか、具体的な居場所を渡すことも。その子を救う助けになる人材を紹介することもできる。ただし……今度こそミチをきちんとフッて——もう二度と会わないという約束をしてくれることが条件だけど」
「…え…?」
メグが書類を握りしめる音が、くしゃり、と響いた。
「メグ、アンタは自分がテイカー(Taker)だと自覚しな。常に優先するのは自分の利益ばかりで、他人から…ミチから与えてもらうばかり、奪うばかりだろ。
そしてミチは、哀れなほどにギバー(Giver)だ。どこまでも惜しみなく、アンタに全てを与えようとしてしまう。自分の幸せが何なのかってことすらまともに考えず、いつだってアンタを優先する。そんな自己犠牲で成り立つ愛なんてあの子にこれ以上抱えさせたくないんだよ。
メグ、アンタもあの子の生い立ちを——少しくらいは知ってるはずだ。だったら尚更、自分が何をすべきか分かるはずだけどね」
▶前回:恋を長続きさせるために、絶対にやってはいけないコト。わかっているのに、28歳女はつい…
▶1話目はこちら:「割り切った関係でいい」そう思っていたが、別れ際に寂しくなる27歳女の憂鬱
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