「いくつもの仕事を行き来するのが好き」と語る彼女だが、かつては自由のない“塀の中”で暮らしていたという。といっても、それは刑務所ではなく“修道院”だ。

厳格な規律のもとで過ごした日々は、彼女にどのような影響を与えたのか。そして、どんな経緯で今の自由で創造的な生き方へとたどり着いたのか——。その歩みを本人に伺った。
◆“信仰”が日常にあった幼少期
——キリスト教文化の土壌がある、長崎市浦上地区のご出身なのですね。やはりそのことが修道院に入る大きなきっかけになったのでしょうか?川原マリア(以下、川原):はい。私の先祖は隠れキリシタンでした。江戸時代にはキリスト教の信仰が禁止され、見つかると島流しにされることもありました。それでも、代々信仰を守り続けてきた家系なので、私はいわば“隠れキリシタンの末裔”というわけです。6人兄弟の中にも聖職者を志す人かいて、“それが普通”という環境で育ちました。末っ子だった私は、当然のようにシスターに憧れたんです。

川原:貧しい家庭で、経済的な制約が多く、不自由な暮らしでした。いちばん古い記憶は3歳のころ。家族全員で父親から夜逃げをした日のことです。諸事情あって父のもとでは暮らせなくなり、着の身着のまま家を飛び出しました。それから母子家庭となり、欲しいものが買えないのが当たり前の生活でしたが、母は本当に愛情深く、懸命に私たちを育ててくれました。そのおかげで「お金はそんなに大事なものではない」と気づけたんです。
◆修道院で送った“塀の中の青春”
——12歳で修道院に入られたあと、今度は別の“不自由さ”に直面したのですね。川原:はい。長崎市にある修道会で、学校法人として幼稚園から高校まで併設されている大きな敷地でした。その中に小さな修道院があり、そばの志願院という寮で12〜18歳の女子およそ30人が共同生活をしていました。個人の所有物は最低限で、塀に囲まれた敷地の外に出られるのは月に1回、たった3時間だけ。テレビも携帯電話も禁止です。修道院を出るまでの6年間で見たテレビドラマはたった1本だけでした。外部から通学する同級生たちとは共通の話題が少なかったものの、みんな私を気にかけて仲良くしてくれました。

川原:志願院や修道院での生活は、毎日やることがほとんど決まっていました。朝6時前後に起床の鐘が鳴り、一斉に飛び起きて10分ほどで布団をたたみ、洗面と着替えを済ませて点呼に向かいます。その後すぐに20分ほどのお祈り、終わったら場所を移して、ミサと呼ばれるカトリックの儀式に参加。ここでも1時間ほどお祈りを続けます。
それからようやく朝食。パンとミルク、果物が中心で、誰とも話さず静かに食べるのが決まりでした。合間に掃除をして、8時ごろには「ロザリオの祈り」という、別のお祈りを30分ほど。その後ようやく、一般の生徒と同じ授業が始まるんです。
放課後は志願院に戻り、洗濯や入浴、夕食、宿題をこなしますが、その間にもお祈りの時間があります。中学生は夜10時、高校生は11時が消灯時間。日々この繰り返しでした。

