◆弟子入りから始まった“表現者”としてのキャリア
——塀の外に出て、初めてキャリアを意識したと思いますが、どのような仕事をしたのでしょうか?川原:名古屋に住む兄夫婦の家に間借りし、近所のケーキ屋でアルバイトを始めました。その後は大手企業の契約社員など、さまざまな職を転々としましたが、22歳のとき「私は表現する仕事がしたいんだ」と改めて気づき、考え直したんです。そして京都にある柄専門のデザイン会社に入社し、着物の柄を描く仕事を始めました。とはいえ即戦力ではなく、最初の3年間は“無給の弟子入り”という厳しい条件でした。

川原:3年も無収入では生活できませんから、最初の1年で正社員になれるよう必死に頑張りました。不安もありましたが、努力が実って社員に昇格し、給料をもらいながら働けるようになりました。
当時の会社では、マネジメントできる人材が不足していたので、そのスキルを磨くうちに社内でも認められるようになりました。5年ほど経って、着物の卸問屋に転職。新規ブランドの立ち上げを任され、全工程を1人で切り盛りする毎日でした。しかし、その無理がたたってか、次第に鬱っぽくなっていきまして……。「このままだと死んじゃうかも」と思い、退職を決意したんです。
その後は就職ではなく、独立の道を選びました。幸運にも観光業関係の方から地方創生プロジェクトのアートディレクションを任され、それがきっかけで軌道に乗ることができまして。そうして一度は諦めた自分のブランドも、再び立ち上げることができたんです。
◆不自由な過去が導いた人生訓

川原:悩んでいるときこそ、無理にでも気分を上げて“笑う”ことが大事だと思います。どんなに「もうダメだ」と思っても、笑えるうちはまだ大丈夫なんです。
私自身、子育て中に産後うつのようになったことがありましたが、そのときも「どうすれば笑えるか」を考え、周囲に助けを求めながら少しずつ立ち直りました。
もう1つは、「自分で自分を呪わない」こと。私は父の性格を引きずって「自分は幸せになれない」と思い込んでいた時期がありました。でも、それは関係のないことなんです。
家族や環境に縛られて、自分の可能性を閉じ込めてしまうのはもったいない。だからこそ、やりたいと思ったことはやってみてほしい。もしうまくいかなくても、必ず何かを学べます。苦労には、すべて意味がありますから。
取材・文/鈴木拓也
【川原マリア】

X:@mariaria108_new
【鈴木拓也】
ライター、写真家、ボードゲームクリエイター。ちょっとユニークな職業人生を送る人々が目下の関心領域。そのほか、歴史、アート、健康、仕事術、トラベルなど興味の対象は幅広く、記事として書く分野は多岐にわたる。Instagram:@happysuzuki

