
◆お笑い芸人になるために上京、気づけば「坂道コロコロ」に

松丘:親父から『お前はおもしろいからお笑いをやれ』って言われて、大阪にあった松竹芸能の養成所に入学したんです。そうしたらネタもやらないし台本も読むのでおかしいなって思ったら、俳優部だった。結局、事務所を辞めて東京に行きました。
――そこから本格的にお笑いを目指すのですね。
松丘:そうです。コンビを結成してオーディションを受けて、ホリプロに所属しました。当時はよほどひどい人じゃなければ合格したんじゃないかな(笑)。僕らの先輩にはさまぁ〜ずさん、フォークダンスDE成子坂さんがいましたね。大阪と東京では、出番前のあいさつの仕方が違って、さまぁ〜ずさんに「お先に勉強させてもらいます」って挨拶をしたら「なにを勉強するんだよ」って言われました。
――坂道コロコロというコンビ名はどうやって決めたのですか。
松丘:最初はエンドレスフィニッシュっていうコンビ名で、事務所からわかりづらいとすごく怒られた。事務所の怖い人に「ライブの出番までにコンビ名を考えてやる」って言われて、出番になったら「坂道コロコロです」って紹介された。ええー、俺たち坂道コロコロなんだって思いました。
――コンビ名を変えようと思わなかったのですか?
松丘:できないです。めちゃくちゃ怖かったんで。でも改名ブームでいうと、さまぁ〜ずさんがバカルディさんからコンビ名を変えて売れたじゃないですか。僕らも、事務所の偉い人が光GENJIの歌詞で出てくる「しゃかりきコロンブス」が好きで、「お前ら、坂道コロンブスにしろ」って言ってきた。 またそこも命令なんですよ(笑)。ボキャブラ天国でも、ヒロミさんから「お前らもっと明るい名前にしろ」って言われて、「エンヤコラさ」っていうコンビ名になったり。大人の事情で色々変わりました。
――『ボキャブラ天国』は、最高世帯視聴率が24.5%(ビデオリサーチ調べ)という人気番組でした。どのように出演が決まったのですか。
松丘:ボキャブラは、同じ事務所から成子坂さん、アリtoキリギリスさん、つぶやきシローさんが出ていたからもう枠がなかった。それでも諦めずに毎週、制作会社に20本くらいネタをFAXで送っていました。何度も繰り返していたら、やっと2、3か月後に連絡が来た。
――自力でつかんだチャンスだったのですね。
松丘:当時はスタッフさんもめちゃくちゃ怖い人が多くて、本当にもう地獄でしたよ(笑)。でもスタッフの前でネタを披露したら、すごく笑いが起きた。本番でもめちゃくちゃ笑いが起きて、メジャーにランクインできた(注:番組内では11位以下はチャレンジャー扱い)。翌週からはネタを送らなくても出られるようになったので、ラッキーでしたね。テレビに出るようになって通帳を記帳したら「えええ」っていう金額が振り込まれていた。こんなに入るんだって驚きました。
◆空前のお笑いブーム。女子高生があとをつけてきたことも

松丘:ブームの頃は、毎週営業に出ていました。千人クラスのホールも客席が満杯でした。ボキャブラ芸人が出演したファンイベントに、ファンを乗せたバスが10台も来たり。なかでもネプチューンさんの人気がすごくて、道を歩けないくらいの出待ちがいた。異常な熱気でしたね。
――まだSNSがなかった時代ですが、だんな松丘さんは実際どうでしたか?
松丘:モテましたね。普通に買い物に行っても、女子高生があとをついてくるぐらい。僕らレベルで、ですよ(笑)。お店に行くと写真を撮ってくださいとかもよくありましたね。
そこからボキャブラブームが落ち着いた時に、今度は『爆笑オンエアバトル』が始まった。出るか迷っていたら、先輩芸人の成子坂さんが出るって言ったので僕らもやるしかないって思いました。
――『爆笑オンエアバトル』でもほぼレギュラーのような扱いでしたね。
松丘:でも合格と不合格を繰り返したんですよ。お笑いブームも落ち着いてきて、だんだんピンの仕事もやるようになった。僕は単独でラジオのレギュラー番組を始めました。
――その矢先に、坂道コロコロ時代の相方の不祥事が起きましたね。
松丘:相方が捕まったのが地獄の始まりでした。もう地獄の一丁目ですよ。事務所からは「1週間、謹慎してくれ」って言われた。「えっ、俺は何もしていないのに」って。ちょうど捕まったタイミングで、ラジオの生放送があった。ニュースになっているのに、プロデューサーから「事件には触れないでくれ」って言われた。だから「今日は良い天気ですね」みたいな話をして必死にごまかしながら喋りました。それなのに、番組が終わるとプロデューサーから「今日で終了です」って告げられました。

