港区・西麻布で密かにウワサになっているBARがある。
その名も“TOUGH COOKIES(タフクッキーズ)”。
女性客しか入れず、看板もない、アクセス方法も明かされていないナゾ多き店だが、その店にたどり着くことができた女性は、“人生を変えることができる”のだという。
タフクッキーとは、“噛めない程かたいクッキー”から、タフな女性という意味がある。
▶前回:なぜ男は彼女に弄ばれるのか?消えたり現れたりする「魔性のテイカー女」の本性
Customer6:ミチの元恋人、柏崎メグ(35歳)
「アンタもミチの生い立ちを——少しくらいは知ってるはずだ。だったら尚さら、自分が何をすべきか分かるはずだけどね」
光江に見据えられ、唇をかみしめたメグが、手にしていた書類をさらに強く握りしめる。
ミチと別れると約束するなら、メグが欲しがっている情報を渡す。光江がなぜそんな言葉選びをするのか、ともみの違和感はさらに大きくなった。
「光江さん…私の意見を言わせてもらってもいいですか」
「もちろん。ここはアンタの…ともみの店だからね」
ふっと表情を緩めた光江に、ともみは驚いた。TOUGH COOKIESを自分の店だと言われるとは思わなかったからだ。けれどその戸惑いはあとにしようと、しゃべりだす。
「メグさんに全てを与えることって駄目なことなんでしょうか。ミチさんが何を自分の幸せだと感じるかどうかは誰にも分からないことですし、他人が決めることではないと思います」
光江とミチの関係を他人だと表現するべきではないかもしれないと恐れながらも、ともみは続けた。
「ミチさんとメグさんの間にあったことも、その書類の内容も、私には分かりません。でも、今の光江さんの言い方はまるで…その…」
「アタシの言い方が?」
「まるで……脅迫みたいで。そんなの、なんか…」
「なんだよ、はっきりいいな」
「…光江さん、らしくない、です」
世界中の誰より尊敬してやまない光江に、おそらく、出会って初めて反論してしまった。途切れ途切れ、そして尻つぼみになりながら、ともみはなんとか言葉を繋いだ。
「アタシらしくない、ねぇ」
光江は、気分を害した様子はなく、ライムリッキーのロンググラスを覆いはじめた結露を指でぬぐうと、氷をもてあそぶように、カラン、カランとグラスを揺らした。
「らしい、ってやつは厄介だよねぇ。アタシは、アタシらしさになんて心底興味がないし、いつの間にか、西麻布の女帝、なんておかしな名をつけられたことも厄介だと思うだけさ。でも今アタシは、その厄介な肩書でアンタたちに話してるわけじゃない」
光江の視線がゆっくりと、メグに戻った。
「ミチを解放するためなら、脅迫だってなんだってするさ」
「メグ、アンタは追い払っても追い払ってもしつこくまとわりついてくる羽虫みたいなもんさ。覚悟の決まらない女に、ブンブンとミチの周りを飛び回られたら、うっとうしくて仕方ない。だから駆除するんだよ。今回のカードを使ってね」
― 駆除。
ともみは自分も、「大輝を傷つけるものは徹底的に駆除する」とキョウコに言ったことを思い出した。けれど光江が発する“駆除”の威力は明らかに桁違いで、世界中を滅ぼしてしまいそうだ。
「ともみさん、ハムシってなに?」と、小声で聞いてきた(一応気を使ったつもりなのだろう)ルビーを睨んでスルーし、同情と応援を込めた視線でただメグを見守る。
「言っとくけど、その書類に書かれてることは、いくつかの国のお偉いさんたちやコネクションに借りを作って、ようやく手に入れたものだ。
アンタがどれだけ調べ続けたとしても、一生たどり着けない情報だよ。もう2度とミチの前に現れないって約束してくれるなら、そのリリアっていう女の子を助けるまでのルートと安全も確保してやるよ。だからメグ、覚悟を決めな」
「…覚悟…ですか」
ため息のように呟いたメグを、ともみは助けたいと思った。詳しい事情は分からないままだけれど、今、ここにいないミチのためにも、光江の勢いを止めるべきだという気がして。でもなんと切り出すべきなのだろうかと、最初の一言を迷ったともみのその一瞬を、でもさぁ~と、ルビーの声が呑気に越えていった。
「さっきから光江さん、いろいろ難しいこと喋ってる風だけど、結局はただの恋バナじゃん。
だったら、光江さんが口出すことじゃなくない?ほらなんだっけ、“人の恋愛の邪魔をしちゃうとゾウに踏み潰される”的なコトワザっぽいヤツもあるでしょ、ね?ともみさん」
ルビーに同意を求められたともみが、ゾウじゃなくて馬だし、踏み潰されたらホラーだよと突っ込むことができなかったのは、光江が睨みを利かせていたからではない。
― 結局はただの、恋バナ。
光江とミチとメグ。3人の絡まった関係や事情などはどうでもいいとばかりに、本質を言語化したルビーに共感したからだ。
「ともみさんもそう思ったから、光江さんらしくない、って言ったんでしょ」
「…え?」
「そもそも人って、絶対幸せにならなきゃいけないものなの?」
ルビーの視線はともみにあるのに、それはまるで独り言のように聞こえた。どういうこと?と返したともみに、ニコッと笑顔を大きくしたルビーは、光江に向き直った。
「ということで、光江さん。私たちにもう少し時間をもらいたいです」
私たち?と返した光江の表情は変わらず、その感情は読めない。
「アタシとともみさんも一緒にメグさんと考えてみるんで、みんなで頭を整理する時間をもらえないかなぁと思って。ということで…光江さん、今日は帰ってくれません?」
ルビーの乱暴な交渉にともみはひやひやしたが、光江は、ほんの少し残っていたライムリッキーをグッと飲みほすと、あっさりと立ち上がった。そしてメグに、覚悟を決めたらともみ経由で自分に連絡してくるように伝え、最後に…と付け加えた。
「たった1度でも仕事よりもミチを優先したことがあるか。たった1度だけでも…自分の手でミチを幸せにしたいと思ったことがあるのか。それを思い出してみてくれないか」
◆
「ワンチャン、置き忘れていってくれるかもって狙ってたけど、やっぱダメかぁ」
あながち冗談でもなさそうにルビーががっかりしているのは、メグが欲しい情報が詰まった書類を光江がしっかりと持ち帰ったことだった。
「ごめんね。2人を巻き込んじゃって」
メグは申し訳なさそうに、少しはお客さんらしく、ワインを一本開けさせてと言った。
BAR・Sneetに比べると、TOUGH COOKIESにあるワインは少ないが、それでも常時、赤白50本以上ずつは置かれている。
SNSの裏アカの流出で炎上した女優・東条みず穂の事務所の社長が光江とは懇意にしていたことが、この店を作るきっかけの1つになっているのだが、その事務所に所属する女優やモデルたちの女子会や、光江と女性の政治家や実業家の会合が開かれる時のためにも、ワインを揃えておく必要があるのだ。
― 稲荷寿司もまだあるから…。
白ワインの方が良さそうだと、ともみはワインセラーを眺める。16個入りだった稲荷寿司に遠慮なく口に入れたのはルビーだけで(4つを平らげている)、まだ半分以上は残っている。
ともみはメグの予算内で、フランス・アルザスのリースリングを選んだ。ドメーヌ・シュルンバジェの、グラン・クリュ・ケスラー・リースリング。白い花とライムのような香りでミネラル感が強く、後味がシャープな白ワインは、油揚げや酢飯との相性が良いはずだ。
リースリングと相性のよい熟成12か月のコンテチーズを少し切って皿に盛ると、ルビーが3つのグラスと共にそれを運び、改めて乾杯をする。
「乾杯の数だけ幸せが増えるって、さっき光江さんが言ってたもんね」
そう笑ったメグの頬から顎のラインが、3週間前より痩せていることに改めて気づきながら、ともみは、良ければ詳しい事情を教えてもらえないかとメグに切り出した。
ミチのプロポーズから逃げた過去、そしてリリアという少女の話。自分の取材のせいでリリアの行方が分からなくなり、ショックで仕事ができなくなったこと。少女の居場所を探し続けてきたけれど全く見つからず、そのうちに眠れなくなり、今はミチの家に泊まらせてもらっていること。
痛みに耐えるように顔を歪め、唇を嚙みしめながら、ポツリポツリと、メグは告白していく。
「光江さんが正論過ぎて、ぐうの音も出ないとはこのことだよ。さっき最後に言われたことも…」
メグは小さなため息の後、続けた。
「思い出せないの。仕事よりもミチを優先したこと。ミチとの約束を仕事でキャンセルしたことならいくらでもあるくせに。自分の手で、ミチを幸せにしたいって思ったことも……一緒に幸せになりたいとは願っていたけど…自分の手でとは考えたこともなかったんじゃないかって、今更気づいちゃった。最低だよね、私」
メグは目を伏せ、情けなさそうに笑った。
「もらってばかりのテイカー(Taker)だって言われたのも、確かにその通りだもん。ミチには許してもらってばかりだったなって。別れも一方的だったのに突然戻ってきた今も、甘えてばかりの女なんて、そりゃ光江さんも許せないに決まってるよね。誰より特別なミチのことなんだもん」
光江は実の母ではないとミチから聞いたことがあるけれど、近しい親族だったりするのだろうか。メグなら知っているかもしれないと思ったが、聞いても困らせるだけだろうと、ともみは別の質問をする。
「あの書類が無ければ、リリアという女の子を助けることはできないんですか?メグさんは世界的に有名なジャーナリストだと聞きました。光江さんを頼らなくても…その伝手で探せないものなんでしょうか」
「これまで…違法なルートも含めてあらゆる伝手を使って探してきたけど、今はまだ命がありそうだっていう噂レベルの情報にしかたどり着いていなくて。正直もうお手上げに近いの。でも光江さんに頼れば、居場所の特定だけじゃなくて、助け出すルートだって確保されてるわけだから」
「メグさんは…光江さんの提案を受けるつもりですか?」
「リリアを助けられるなら何だってする。助けられなければ後悔どころじゃすまないから」
「ミチさんに会えなくなっても、後悔はしますよね?」
「後悔もなにも、元々、私がミチを手放したんだし。だから正しい形に戻るだけなんだよ。とにかく…リリアの命よりも大切なものなんて、今はないんだから」
― 正しい形に戻る…。
メグとミチの正しい形とは、一体どんな形をしているのだろうかと思いながら、ともみが白ワインのグラスを手に取った時、「う~ん」とルビーが唸った。
「メグさんの、その答えじゃたぶん違うっていうか…な~んか、試されてる気がするんだよね」
「試されてるって…光江さんに?」
メグの疑問に、ルビーが大きく2回頷いてから続けた。
「だから今から――ミチさんを呼び出して、4人で飲みません?」
「え…?」
呆気にとられたメグに、ルビーはニコニコと言葉を重ねる。
「光江さんが狙ってたのは、それなんじゃないかなぁって。今日は月曜日でSneetは休みだし、たぶんミチさんはヒマしてますよ。だからみんなで飲みに行っちゃいましょ♡」
困惑したメグに、助けを求めるような視線を送られたともみも、ルビーの提案の意図を理解しきれてはいなかった。けれどルビーを信じて“店長”の仕事をすることにした。
「ご来店された時は、秘密保持契約のご希望はございませんでしたが、改めてお伺いします。ご来店されてから今までの話を、ミチさんを含む誰にも口外しないという契約を結ぶことができますが、いかがなさいますか?」
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▶1話目はこちら:「割り切った関係でいい」そう思っていたが、別れ際に寂しくなる27歳女の憂鬱
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