◆「今から東京行きよるけん!」ビデオ通話に固まる乗客たち
中田実さん(仮名)は博多から東京行きの「のぞみ」に乗車。夕方の便で車内は静かな雰囲気に包まれていた。出張資料に目を通そうとしたその時、隣席から衝撃的な大声が響き渡った。「おーい、聞こえる? 見える? 今から東京行きよるけん!」
隣の中年男性がスマホでビデオ通話を始めたのだ。画面には相手の顔が大きく映し出され、男性は周囲の状況を気にする様子もなく、そのまま会話を続けた。
画面には、自分の顔まで映り込んでいた。だが、注意したくても声をかけられない。もしかすると、録画されているかもしれないという不安も相まって、簡単に動くことができなかったのだ。
「いや、今日も課長がさ、意味わからんこと言い出して……マジで無理っちゃけど!」
ビデオ通話では会社の愚痴が繰り広げられていたが、次第に内容がエスカレートし、声は大きくなっていった。
「ほんと頭固いんよ。なんで俺だけ怒られないかんのか分からん!」
相手も「それマジ?」「ひどいねえ!」と大きな声で返すため、二人の会話はほぼ車両全体に響いている状態だった。中田さんは資料を読むことができず、ただ前を向き、会話が早く終わることを祈るばかりだった。
周囲の乗客たちも中田さん同様に困惑している様子で、視線を向ける人はいるものの、誰も注意する人はいなかった。ビデオ通話という性質上、注意した人まで画面に映ってしまう可能性があり、躊躇していたのだろう。
◆車掌の注意「恐れ入ります、お客様……」
会話が10分ほど続いた頃、車掌が巡回でこの車両に入ってきた。男性の声は相変わらず大きく、愚痴の盛り上がりは最高潮に達していた。車掌は状況を一瞬で把握し、小さく会釈してから男性に近づくと、落ち着いた声でこう言った。「恐れ入ります、お客様。車内での通話はデッキをご利用いただけますか」
男性は自分が注意されるとは思っていなかったようで、「え? あ、ああ……はいはい」と不満そうに返事をすると、通話を切らずにスマホを持ったままデッキへと向かった。
席を離れた瞬間、車内は静寂を取り戻した。中田さんは、ようやく深い息をつくことができた。男性はその後もデッキで話し続け、しばらく席に戻ってこなかった。
中田さんは「注意したくても注意できない状況って、本当にあるんだな」と実感したという。そんなときに頼りになるのは、やはり車掌という立場の人なのかもしれない。
<構成・文/藤山ムツキ>
【藤山ムツキ】
編集者・ライター・旅行作家。取材や執筆、原稿整理、コンビニへの買い出しから芸能人のゴーストライターまで、メディアまわりの超“何でも屋”です。著書に『海外アングラ旅行』『実録!いかがわしい経験をしまくってみました』『10ドルの夜景』など。執筆協力に『旅の賢人たちがつくった海外旅行最強ナビ』シリーズほか多数。X(旧Twitter):@gold_gogogo

