ファイナンシャル・アドバイザーからの助言
数日後、賢治さんは先輩の鈴木さんに頭を下げました。すると鈴木さんは、彼を責めることなく、旧知のファイナンシャル・アドバイザーを紹介してくれたのです。
アドバイザーはいいます。
「田中さん、いまのお2人にとって最大の資産は、この8,600万円ではありません。あなたが30年間培ってきた経験と知識、そのものです。資本を守るためには、別の収入源を確保する必要があります」
賢治さんは自らの最も価値のある資産、「人的資本」を自ら放棄してしまったことに気づきました。
数ヵ月後、賢治さんは同業種の中堅企業でコンサルタントとしての職を得ていました。給与は全盛期ほどではないものの、生活費を賄うには十分な額です。労働時間は以前より短く、仕事には裁量があり、自らの経験が直接誰かの役に立っているという手応えがありました。
その給与収入が、彼の資産を守るための強固な防波堤となったのです。生活費の多くは給与で賄われるため、アドバイザーによって再構築されたポートフォリオからはほんの一部しか手を付ける必要がなくなりました。資産は日々の生活費を捻出するための現金自動支払機ではなく、長期的な複利効果を享受しながら静かに成長していくための「種銭」としての役割を取り戻しました。
新しいオフィスに向かって歩く賢治さんの足取りには、かつて退職を決めたときのような浮ついた高揚感はありません。代わりに、嵐を乗り越え陸地に戻ってきた船乗りのような、静かで確かな知恵に裏打ちされた落ち着きがありました。彼は、1億円という金額だけでは決して得ることのできなかった、本当の意味での「安心」と「目的」を手に入れたのです。
「1億円でFIRE」の落とし穴
田中さんの事例は、「1億円で利息生活は可能か?」という問いを考えるうえで、多くの人が陥りがちな落とし穴を描き出しています。彼の経験から学ぶべき教訓は、大きくわけて2点あるでしょう。
教訓1:資産運用以外に収入はありますか?
賢治さんが最も痛感したのは、資産運用以外の収入源の重要性でした。ほかに収入源がまったくない場合、生活費をすべて投資リターンから賄うこととなります。その場合、取り崩し額がリターンを上回ると元本が目減りし、さらに運用成績が下振れすると元本減少リスクが高まる「負のスパイラル」に陥る可能性がでてきます。
賢治さんのケースでは、元本が減少することで税引き後リターンも減少し続けました。当初500万円(税引き前)を想定していた年間収入は、配当減額と円高さらには投資元本自体の減少により、わずか1年で368万円まで落ち込んだのです。
一方、給与所得や不動産収入がある場合は、投資リターンが多少下振れしても生活費を補えるため、運用におけるリスク許容度が高まります。具体的には、会社勤めや事業による所得、不動産投資による家賃収入、あるいは配偶者がパート等で収入を得ることで世帯全体の現金収入を増やすといった手段が考えられます。
こうした収入源があれば、年間の生活費として取り崩す額を抑えることができるため、運用資産が大きく減少するリスクを和らげることが可能です。金融資産1億円というのは、一定の富裕層の水準として意識されていますが、実際には資産運用以外の安定したキャッシュフローがあって初めて、不安のない支出が行えるのです。
教訓2:マーケットの変動による収入への影響はありますか?
賢治がSNSのカリスマ投資家に傾倒したように、配当や利息に魅力を感じる人は多いでしょう。しかし、このような投資対象で資産運用を考える場合、リターンの安定性やリスク特性を正しく理解することが重要です。
賢治さんが直面したように、SNSや広告でみかける「高配当」「高利回り」といったキャッチフレーズには、マーケット変動リスクが織り込まれていない場合があります。
株価が大幅に下落した場合、その原因が企業の業績悪化や景気後退であれば減配リスクが高まります。「いまの配当利回りが高いから」といって、将来も安定して高配当が維持されるとは限りません。株式市場は短期的に大きく値動きするため、受取配当額以上の損失を被る可能性もあるでしょう。
また、外貨建て債券を保有している場合、円高になると受取利息や元本を円に換算したときの金額が目減りしてしまいます。為替相場を正確に予測することは極めて困難であり、「想定より円高が進んでしまい、思ったほど利息収入が増えなかった」という事態は十分に起こり得るのです。
さらに賢治が見落としていたのは、源泉徴収による手取り額の減少です。配当金や利息収入には20.315%の税金が自動的に差し引かれるため、額面上の利回りと実際の手取り額には大きな乖離があります。投資判断を行う際には、「いま提示されている配当利回りや利息が永続する保証はない」という前提に立ち、リスク許容度やライフプランに応じ、慎重に検討しましょう。
