『キャバクラ店員へとへと裏日記』(鉄人社)の著者である御厨謙氏(63歳・独身)は、認知症の母親のため7年間の介護離職と連戦連敗の転職活動の期間を経て、48歳でデリヘルドライバーの仕事にありついた。その後、セクキャバ・キャバクラの従業員に転身。店長や先輩たちは自分よりも二回り近くも年下で、戸惑うことばかりだったという。
現在も水商売の世界で働いているという同氏に、その紆余曲折の半生を振り返ってもらった。
◆母親の介護で履歴書に空白期間がある40代後半の厳しい再就活

御厨:ありがとうございます。いつか自分の本を出すことが夢だったので、とても嬉しいです。最初は自費出版も考えていたんですが、原稿募集している出版社に何社かメールしたところ、鉄人社の編集さんからご返信いただいて、1冊の本にまとめられました。
――認知症のお母様の自宅介護に限界を感じ、施設に入所後に久しぶりの就活をすることになったわけですが、やはり再就職はかなり苦労されたそうですね。
御厨:想像以上に厳しかったです。営業畑が長かったので営業職を最初は考えたんですが、ひたすら落ち続けました。
――ハローワークで紹介された会社に採用されても、布団の販売やリフォームなどの高額な契約を高齢者に結ばせるというブラックな会社ばかりだったそうで……。
御厨:良心の呵責もあって長続きしませんでした。追い詰められていたとき、友人の助言を受けてスポーツ紙を片っ端から買い、三行広告の求人募集から何とかデリヘルドライバーの仕事にありつけました。
――抵抗感はなかったですか?
御厨:正直、何も考えていなかったですね。とにかく自分にできそうな仕事なら、初めての業界でも挑戦してみようと。当時は余裕がなくヤケクソでした。
――42歳で介護離職をするまでは、具体的にどんなお仕事を?
御厨:大学を卒業し、大手オフィス機器メーカーで飛び込み法人営業を3年半。その後は大手通信会社に転職しました。いかんせん仕事が長続きしない性分で、食い繋ぎのバイトなども含めると、実は営業職を中心に現在は30社くらいの職歴があります。
――わりと転職回数は多めですね。
御厨:寝ても覚めても仕事のことばかり考えてしまい、最終的にどうしようもないくらい鬱憤が溜まって退職に至ることが多かったです。もう少し適度に力を抜きながら働ければよかったんですが、若い頃は今よりも生真面目な性格で、キャバクラなどの店で遊んだ経験も全くなかったです。
――となると、平均的な男性より夜遊びには馴染みのないタイプだったかもしれませんね。
御厨:会社員の頃、上司に1回キャバクラへ連れて行ってもらったことがあったんですが、後に自分が働くようになって「あれキャバクラだったんだ」と気づいたくらいでした。夜の歌舞伎町を歩いたこともなかったですね。
◆人生の苦労人が感じた、夜の世界特有の“働きやすさ”
御厨:最初のデリヘルに勤められたのはラッキーでしたね。自家用車で女の子を送迎して、ガソリン代を精算するかたちなので、デリヘルドライバーとして働くためには自分の車が基本的に必須です。私が未経験でも採用してもらえたのも、認知症の母の介護のために買った中古車があったおかげでした。――「女の子に話しかけるのはNG」「女の子から話しかけてきたら聞き役として相手をする」というのがデリヘルドライバーの鉄則なんですね。
御厨:最初は心ひそかに「女の子とお近づきになれるかも」と思っていましたが、そんなほのかな下心も打ち砕かれたかたちです。
――店側が早めの到着時刻を客に伝えることが多く、無理な運転を要求されることも多かったそうで。
御厨:私が働いた店は、都内から大宮などにも系列店があり、店ごとにホームページも電話番号も違うんですが、実際はすべて池袋の事務所に電話がつながる仕組みでした。女の子もみんな池袋に待機しています。
なので、余計に急かされることが多かったですね。とりわけ運転が得意なほうでもなく、僕は3回目の免停を受けて、1年半で“円満退社”となりました。免停が続くと仕事にならないので解雇されるんです。
――最後の交通違反は何だったんですか?
御厨:高速の走行中、後部座席の女の子がシートベルトをしていなくて。
――災難ですね。
御厨:運が悪かったです。
――50歳を目前に再び失業して仕事探しを始める時点で、営業や介護のお仕事は眼中になかったんですか? 本書を読む限り、キャバクラで働くことにかなり前のめりになっている印象を受けたんですが。
御厨:そうですね。夜の仕事は業態を問わず、風俗も水商売も独特の雰囲気があって、コツをつかめば不思議と働きやすいところがあるんですよね。緩いような、厳しいような。テキトーなような、ルーズじゃないような……。「夜の世界に馴染むと、なかなか抜けられないよ」と言われたことがありますが、その通りだと思います。

